鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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phu ハU現存する3体についても,実際にそれらをモデルに描かれた,もしくはそれらと関連すると思われる人物を,複数の作品の中に容易に見出すことが出来る。例えば〈復活のキリスト〉の場合,ドーニヤ・マリア・デ・アラゴン学院の〈キリストの復活〉〔図17〕にほとんどそのまま重ね合わせられる。また息子ホルヘ・マヌエルの手がかなり入っていると思われる最晩年のタベーラ施療院の祭壇衝立画に至るまで,ヴェネツイア時代からエル・グレコが描き続けた〈受胎告知〉の主題で執劫に使われた大天使のポーズも,基本はこの〈復活のキリスト〉であろう。〈エピメテウスとパンドラ〉はそれ自体がほぼ同ーのポーズを反転させた男女一対の構成で,細部の相違はあるにせよヴェネツィア時代の〈モデナの三連祭壇画〉のアダムとイブ〔図18〕に,そしてそれから40年以上を経た〈ラオコーン〉の右端に描かれた二人の謎の人物に結びついている。ミケランジエロの〈ダヴイデ〉(フィレンツェ,アッカデミア美術館)との類似性をとりわけ強く示すエピメテウスは,〈聖マウリテイウスの殉教〉〔図14〕後景の後ろ姿の全裸の男性としても現れている。模型を用いた同様の制作手法をヴェネツイア派のテイントレットが採用していたことはよく知られているところであるが,エル・グレコもヴェネツイア時代にそれを習得したのであろうか。上記3体やその他の模型がいつ頃制作されたのか明らかではないものの,筆者はイタリア時代後半に集中的に作られたのではないかと考えている。なぜなら〈エピメテウスとパンドラ〉が示しているように,模型自体にイタリア修業の成果が盛り込まれており,またスペイン到着直後のエル・グレコが,サント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ修道院の祭壇装飾で彫刻の制作も引き受けていることは,小型模型とは言えそれ以前にある程度の彫刻制作の経験があったものと思われるからである。おそらくエル・グレコは,他の美術家の作品の実見や版画を通じて学んだ図像を,さらなる研究と応用のために小彫像にし,スペイン移住後は必要に応じて新たな模型を付け加えたり改変を加えたりしていったのであろう。制作途上で用いられたこのような模型は,人物の姿態や構図の構成に活用されたばかりでなく,強い照明を当てられることによってエル・グレコに特有の大胆な陰影表現の研究にも寄与したはずであり,常に絵画制作の補助手段として重要かっ不可欠なメディアとなったにちがいない。

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