たであろう。玄白は西洋の解剖学者のように,実際に解剖を見て解剖学書を書く必要はなく彼の仕事は翻訳であった。翻訳と同時に彼自身がその作業を通して解剖学を習ったのである。この時に案出された単語例えば,筋肉,神経,血管等が現在でも医学専門語として使用されている。正確な写実性を必要とする解剖挿図は,直武によって描かれたが,直武にとっても初体験の仕事であった。玄白の回想記,『蘭学事始』に直武のことには全くふれていないのは遺憾である。では,直武はどのようにしてこの大役を6'7ヵ月という短期間ではたしたのであろうか。直武と挿絵直武は若年期から画才に恵まれていたが,挿絵画家としての経験はなく,まして医学の挿図は初めてである。そのため直武は一番堅実な方法,即ち手本をそのままコピーすることから始めた。玄白は凡例で「…和蘭解体諸本を校勘して…これを謄し」といい,直武は蹴丈で「…予をしてこれが図を写さしむ」と言っている。試みに,1774年に出版された玄白の『解体新書』と,『ターヘル・アナトミア』のオランダ語版の二書を比較してみた。驚いたことに,二書の図は一寸の違いもなくひ。ったりとあった。すなわち玄白の「謄」,直武の「写す」は,トレースを意味したことが分かる。すると直武が6,7ヵ月という短期間で『解体新書』の挿図を完成することが出来たことも理解ができる。直武に求められたのは,経験ある色彩画でもなく水墨画でもない,線描により陰影を示し,写実性を重要視した独特の画法であった。直武は,肝臓と胃臓の形態,形状の相違を明確に表示しなければならなかった。トレースでサイズの違いは完全に確保できても,直武は前代未聞の鋼板画に使用された陰影法を学び,かつ日本の木版技術に合わせて新規の陰影法を考案しなければならなかった。クルムスの解剖書は18世紀初期にヨーロッパで,特に学生の聞で,広く使用された本であるが,解剖書はヴェイヘンエン(PhilippVerheyen)が書いたCorporishumani anatomiaをもとにして書かれたもので,ヴェイヘンエンが使用しなかった劣等な銅版を使用した小さな解剖書である(注21)。『解体新書』に使用されているほとんどの挿図は,クルムスの解剖書から採られているが,上述の様にクルムス以外の解剖書から図が採用された場合,玄白は解剖図の右肩に特別の漢字を与え原典を明らかにしている。まず第ーにクルムスの本との編集的相違がみられるのは,各章の順番を変更していることである。第二は,各々の解剖図の側に名称を書き添えていることだ。しかし54
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