鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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2.パゴー及びラグンピー実際にはそのほかの形態の装飾タイルや瓦が作られ,緑紬のほかに黄柚も使用されていたのであって,パガンの施粕タイルは思いの外豊かな展開を見せていたのである。『唐書』『旧唐書Jなどに,ピューの都城に施粕瓦が使われていたという記述があることはよく知られている。ナッチュエンナダウの緑紬埠はその片鱗を伺わせるものかもしれない。マウン・マウン氏によるとピー(プロム)の近くのピューの都城ターイェーキッタヤーから緑粕瓦が出土しているとのことである。わが国ではピューの施紬瓦は文献上のみの存在とされてきたが,ミャンマーではより具体的に捉えられているようである。施柚タイルの焼造はピュ一時代に始まってパガン時代には多様な展開を見せていたということになる。ミンカパ村一帯で、発掘・保存されている窯は5基である。外径1メートル50cm内外で窯壁の厚さが30センチほどの,ほほ円筒形の窯で,内側面なかほどにロストルの痕かと思われる穴が並んでいる。側面下方に焚き口か通気口と思われる横穴がlないし2箇所あいている。どの窯も天井部分がなく,窯壁上端が平坦であり,その上端部から内側にかけての縁に青緑色のガラス質の熔着物が残っている窯も見られた。窯の周辺には多くの土器片にまじって,内側から口縁にのみ青緑色のガラス質のものが付着している壷の口縁部が落ちていた。ハイン氏が調査したときにはガラスのビーズも発見されたとのことである。ハイン氏はこれらの窯をガラス用の炉と結論している。真道洋子氏の教示によるとエジプトのフスタットからも内面と口縁のみに青緑色のガラス状の熔着物がある壷が出土しており,その色と,近辺で出土するガラス製品の色とが一致するので,その壷をガラス製造時の熔解用のものと位置付けているとのことである。また,曾田雄亮氏・松田泰典氏。・塚田全彦氏はパガンの窯の熔着物の分析を行っており,それが紬ではなく低温で融解する珪酸塩ガラスであることを確認している(注6)。この窯が柚薬のためのフリットを作る窯であるということも考えられないわけではないが,ガラス用の窯の可能性のほうが高いといえる。結局,パガンの施紬タイルはどこで焼かれたのかという問題は未解決のままである。パゴーはモン族のベグー王朝の首都,そしてそれを征服したピルマ族のトウングー王朝の首都であった。インドネシアのイスラム貿易国家パンテンを往来した外国商人の中にベグ一人の名が見える。また,東インド会社の記録にも彼等は現われる(注7)。-632-

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