phu phu 1〜3は筆者が実際に訪れ確かめることのできたピルマ陶磁の故地である。ハイン氏やミョー・タン・ティン氏によると,このほかにさらに西方のミャウンミャー,ムロウハン(アラカン)に窯が発見されているという。ラグンピーに近い形態の倒炎式窯で,アラカンでは地下式,ミャウンミャーでは地下式と地上式があるとのことである。4.マルタノくンマルタパンはいろいろな意味で注目される場所である。マルタパンはチーク林を控えた造船業の中心地でもあり,重要な港であった。ランナ・タイの豊かな森林産物はタークを経由してマルタパンに運ばれ,ベンガル湾に出たのであり,16世紀なかばから始まったタイとピルマの戦争の原因の一つにこのルートの争奪があったとされる。ヨーロッパ人はベグーとこのマルタパンで交易を行った。そこで想起されるのがメソット出土陶磁である。最も話題を呼んだ白粕緑彩陶であるが,メソット出土陶磁の全体量からいうとごく一部で,出土問磁の大半はタイ陶磁であったといわれる。しかも,従来は産地周辺以外では見られないとされていたランナ・タイの陶磁が主であった。マルタパンは現在はサルウイン川が運ぶ土砂で埋り,港としては機能しなくなっているが,河口付近には大量の陶磁器の堆積があるという。ランナ・タイ陶磁の有無を含めて,間磁の集積地としてマルタパンは調査されるべき場所である。さらに,東南アジアを中心に流通した壷,マルタパン・ジャーの問題がある。多くの大壷がこのマルタパンから出荷され,そうした中国・タイ・ピルマ産の壷を総称してマルタパン・ジャーと呼んで、いたのである。マルタパン壷は日常実用品としての価値のみで流通したわけで、はない。この点についてはアジャットマン氏とアブ・リド氏による『テンパヤン・マルタパン』の中で詳しく述べている(注8)。インドネシアやフィリピンでは,壷は貯蔵に使われることはもちろんであるが,宗教儀礼に必要で、あり,その家の財力を示す家宝としての意味をも持っている。また,壷には高位の神が宿ると考えられているという。オランダ東インド会社の記録にはマルタバン壷に関連する記録が何箇所か残っていて,その相場が,皿0.2フロリンにたいして5フロリンと高く,また,l個21フロリンの壷83個が注文された記録もある。また,約5万フロリンの借金の担保に2個の壷と200の弾丸帯が提供されたという記録がある(注9)。アジヤツトマンによってピルマ産であることを明らかにされた,白士の点文や線文
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