鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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f壬である。口円台δunhu めぐらされていた。低火度の黄褐紬がかかったもので,紬面が光っていてまだ新しい感じを受けたが,中国製との説明を受けた。ジョン・ガイ氏は,1819年にボダパヤ王が死去したために未完となったミングン寺院のタイルを示して,アヴァで19世紀初めまでジャータカ・タイルが作られていたことを紹介している(注11)。長い仏教信仰とともに,施柚タイルの焼造は続いてきたものと思われ,ピルマ陶磁に果たす役割も大きかったのではなかろうか。マンダレー近郊のインワで黒紬大壷が現在の生活の中で使われているのを目にした。その作風は15〜16世紀とされる黒紬貼花文壷とはやや異なるが,白泥の貼花文装飾をもっており,胴体の下3分の2ほどが地中に埋められ,水が蓄えられていた。ガイ氏によると,1757年にアヴァによってペグーのモン人陶工が黒紬大査焼造のためにマンダレーに連れ去られたという(注12)。筆者が目にしたのはそうした黒粕大壷の流れを汲むものかもしれない。パガン考古学博物館で見た黒柚大童についてマウン・マウン氏は「パガン・ジャーであり,この地で作られたJと解説された。確かに,インドネシアなどで多く目にするいわゆるマルタパン・ジャーに比べて取っ手の作りなど非常にがっしりとしており,いくぶん雰囲気が異なっていた。また,一方,ミン・オン・トウイ氏の話で、はマルタパン周辺で焼造されたものの中に黒粕大壷があり,近世まで続いていたとのことである。黒紬大童焼造の伝統は長く,その産地も複数箇所があった可能性がある。ピルマ陶磁の研究はいかなる結論も出せる段階ではない。筆者の見聞は限られており,今井敦氏が触れられていたシャン州,およびハイン氏やミョー・タン・ティン氏が注目している西方のアラカンについてはほとんど情報を得ていない。今年度の調査計画の行方を見るように,ミャンマーの情勢は複雑で,研究の見通しには不透明な部分が残るというのが筆者の個人的な感触である。しかし,ミャンマ一国内で関心が高まっており,この点に期待している。きたる9月にパガンで東南アジアの施柚陶磁に関する国際会議が予定されている。内外の陶磁研究者の聞にピルマ陶磁に対する理解が深まることは間違いないだろう。なお,この報告書内では諸氏から筆者が教示を受けたことを記しているが,その内容に誤りがあるとすれば,それはまったく諸氏の説を正確に理解していない筆者の責

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