鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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⑮ 明治期後半の東京の陶磁器産業とその図案の特質研究者:沖縄県立芸術大学専任講師小林純子明治期の東京において,陶磁器の表面に極めて絵画的な絵付けを施した「東京絵付」が興隆した。「東京絵付jは,明治6年(1873)のウィーン万国博覧会への出品作品に絵付けをするために明治政府が設置した博覧会事務局附属磁器製造所に始まり,この製造所の陶画工を引き継いだ瓢池園や起立工商会社,コ、ツトフリード・ワグネルによる旭焼などを中心として,本来の産地でないにもかかわらず,洗練された図案や絵付技術の高さを武器に盛んになっていった。製造所の担当官で後に瓢池園社長になった河原徳立が,製造所設立の動機を「旧来ノ模様風ヲ改メ絵画同様ニナスヲ得パ輸出ノ途ヲ開キ国益トナルコト疑ナケレノ汁(注1)と述懐し,さらに瓢池園の作風について「専ラ美術的精品ヲ造リ絵画ト違ハザルヲ勉メ大ニ声価ヲ博シ世ニ所謂瓢池園風ノ淵源ヲナセリJ(注2)と記すように,「東京絵付Jの特徴はまさに絵画性にあったといえよう〔図1〕。この「東京絵付」こそ,東京の陶磁器産業の中心であった。「東京絵付」の作品を装飾した絵画的な図案は,欧米向けの輸出品を主としていたこともあり,テレピン油を用いる西洋の陶画技法で描かれながらも,日本的なものが多かったのがもうひとつの特徴である。この背景には,日本のナショナリティーを示すための美術,すなわち「日本画」の創出を政府が指導し,工芸の図案として奨励したことがあった。むしろ,有望な輸出品である工芸の図案として「日本画」が形成されたといったほうが,よいかもしれない。また,当時イギリスを中心に欧米各国で行われていた,純粋美術を工業製品に応用しようとする,応用美術の考え方が伝習生によって導入されたが,それが元来絵画的な意匠を好む日本の工芸の指向と合致したことがあげられるだろう。加えて,西洋の化学的な技法の輸入によって,絹紙上の「日本画jを器上に再現することが容易になったことも,要因のひとつであると考えられる。以上,明治初年から同10年代の工芸図案の特質である工芸と絵画の密接な関係,特に「日本画j創出との関わりについては,拙稿「「日本画」をまとう工芸一一東京絵付と明治前期の応用美術政策」(『東京都江戸東京博物館研究報告j第2号,平成9年3月)において,すでに述べたとおりである。本論では,昨年度鹿島美術財団の助成を受けて行った作品や文献の調査結果を踏まえ,前掲論文では触れなかった明治20年代以降の東京の陶磁器産業の実態を明らかに641

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