29年(1896)に図案科が設置された国立の東京美術学校より,この学校の果たした役するとともに,また別の角度から明治期の図案の特質について論じてみたい。1 東京の陶磁器産業の状況かつて,東京には大規模な製陶工場が建設され,多数の陶工や陶画工が活躍していた。明治18年(1885)の時点で,陶工では自窯を有する者が76人,雇工50人,属工55人の,計181人がいた。また陶画工は,自窯を有する者34人,雇工175人,属工23人の,実に232人がいたことが判っており,東京の陶磁器産業の産出額は,佐賀県,岐阜県,愛知県,京都府に次いで,全国第5位であった(注3)。東京を除く府県は,有国,市之倉,瀬戸,清水や粟田といった産地を抱え,従来から陶磁器産業が盛んだ、った地域である。今は見る影もないが,明治期においては,東京は陶磁器の一大産地だ、ったのである。この事実ひとつとってみても,東京の陶磁器産業について調査研究を行う必要性は十分にあると私は考えている。さて,明治20年代以降の東京の陶磁器産業だが,特筆すべきは業界機構の整備であろう。まず日本の陶磁器産業全体を包括する組合の設置,すなわち前年に組織された窯工会を改称して,明治25年(1892)大日本窯業協会の設立が実現した。東京においても,同29年(1896)の同業組合法制定以降,東京陶磁工同業組合(前年に設立された東京陶磁工組合を改称)が設立された。そして同27年(1894)頃には,五二会東京陶磁器部も組織されている。瓢池園社長の河原徳立は東京陶磁工同業組合の組合長など,これら諸国体の要職を歴任している(注4)。陶画工の団体も誕生し,明治34年頃,東京陶画協会が発会している(注5)。横浜の陶画工たちによる横浜陶器画附業組合は,すでに同23年(1890)には出来ていた(注6)ので,東京はかなりの後れをとったことになる。しかしこれは,上記のように明治期の東京には陶画工という独立した職業が存在し,しかも団体をつくれるほどの人数が活躍していたことの証明といえるだろう。また,工業学校における工芸教育も,明治期後半に充実の時を迎えた。明治14年(1881)設立の東京職工学校は,はじめ化学工芸科と機械工芸科が置かれたが,同23年(1890)東京工業学校と名称を変え,同32年(1899)工業図案科を増設した。同34年(1901)東京高等工業学校と再び改称されるが,この時期の東京の工芸教育を考える場合,同割のほうが大きいように思われる。河原徳立も明治30年代に図案科講師を勤めている642
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