(注7)。このほか,東京には同27年(1894)工業教員養成所がつくられ,地方の工業学校の教師を養成したことも,つけ加えておく。さらに作品の展示場だが,東京府は明治11年(1878),前年に開催された第一回内国勧業博覧会の出品作品を販売するため,第一勧工場を辰ノ口永楽町に,付属工場を持つ施設として第二勧工場を神田和泉町に設置した。後述するように,明治期後半には,この勧工場は東京府の工芸振興政策の拠点となっていった。国の施設としては,同29これら同業者組合の設置,専門的な学校教育の充実,作品の展示場の設立は,すでに明治18年(1885)繭糸織物陶漆器共進会の折りに開催された,間器集談会という全国産地の代表が集まった会合で要請されていた事柄である(注8)。このときの業界の要望は,その後着々と実現されていったことになろう。明治前半期の日本の工芸界は,政府の機関である製品画図掛と,この掛と関係の深かった美術団体龍池会の指導下にあったといっても過言ではない。龍池会は明治12年ぐる思潮をリードしていった。また製品画図掛は工芸品の図案の改良指導を主な目的として設置され,掛内で制作した図案を地方の工芸家に貸与して,それをもとに作品を作らせたり,あるいは工芸家による図案を添削指導するなどの事業を行っていた。製品画図掛の官員はみな龍池会の主要な会員たちであり,龍池会と製品画図掛の関係は,いわば理論と実践の関係であったといえよう。製品画図掛のほうは,次第に財政が厳しくなり,貸与に対して料金を徴収するなとマの措置を行ったが,ついに同18年(1885)廃止されるに至った(注9)。東京ではこの龍池会の地方版というべき団体が,ちょうど製品画図掛が廃止される時期の同17年頃に設立された。東京工商研究会と称し,東京府文書によれば前出の第一勧工場内に設けられている(注10)。同研究会副会頭は龍池会会員にして江戸川製陶所創始者の塩田真で,河原徳立と同様に東京の陶磁器産業に大きな影響力を持っていた人物である(注11)。主な活動としては,同18年(1885)から同20年(1887)まで毎年一回,新工集覧会という展覧会を催し,第三回には同18年に東京府が行った工芸品共進会の出品作品に改良を加えたものが出陳された(注12)。年(1896)農商務省が省内に貿易品陳列館を設置している。2 東京の工芸振興政策(1879)に設立され,工芸の振興にあたった政府の官吏が多く在籍し,当時の工芸をめ643
元のページ ../index.html#653