3 迫られる図案の変化この東京工商研究会と龍池会が深い関係にあったことは,次のようなことから推測される。まず,同研究会のことを記した東京府文書のうちには,龍池会の罫紙を用いたものがある(注13)。また,塩田は同研究会と龍池会の関係を次のように位置づけ,両者は補完関係にあることを示唆している。該研究会ハ人生日用ノ雑品ヲ鑑査評論スルヲ主トシ又龍池会ニ於テハ其美術ニ渉ル製品ヲ研究シ両会相須テ始テ我邦工芸々術ニ関スル事項ヲ漏サズ勧奨セントスルノ意ナリ(注目)加えて,この研究会は通常の活動として,製品の審査や論評,あるいは農商務省の官吏を招いての講演を行っていたことがうかがえ(注15),これはまさに龍池会の工芸勧奨の手法そのものである。以上のように,東京の工芸振興政策は,政府に依存していた時期を経て,自治体レベルの団体や施設を置くことにより,東京独自の施策を行うようになった。しかしその実態は,龍池会の影響が非常に大きく,政府の敷いた路線を踏襲するものだ、ったといえよう。前述のように政府のお膝下の東京で発展したこともあり,「東京絵付」は政府の方針に常に忠実で,日本という国家を表出するべく遁進した。河原徳立は「椴令洋食器と雄も,図案,色彩の上に巧に日本趣味を加ふれば,必然内外人を喜ばしむるのみならず,慶く外国市場に歓迎せらる、に至るべきなり。」という信念から,作品に「日本画」を絵付けすることに努力を重ね,また同業者に対しても,「我が陶業家が素地,焼成を工夫するには欧米の長所を採り,形状,絵画,彫刻等の意匠と,其の表現仕法には,優雅高尚なる国風の趣味によらんことを望Jんで止まなかった(注16)。ただ,当時の図案の作り方は,主に古画や粉本,図譜等から直接採られることが多く,明治8年(1875)から同18年(1885)まで行われた政府の製品画図掛による図案制作が,図譜類のまさに敷き写しであったことは,横溝慶子氏が明らかにしたところである(注17)。「東京絵付」もその作品を見る限り,狩野派の古画を模した作品〔図1・図2〕や相阿弥真相の原画を用いた作品〔図3〕があり,著しい模倣主義,古典主義が見て取れる。しかしやがて,このような図案制作のあり方,つまり伝統的であろうとするあまりに古画を模作し,その結果旧弊に陥るということに対し,反省を迫られる時期がやっ-644-
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