鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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てきた。世紀の変わり目である明治33年(1900)に,フランスのパリで開催された万国博覧会がその契機となったのである。日本はかなりの意気込みでこれに参加したが,出品作品に対する評価は,それまでに比べてあまり高いものではなかった。このパリ万博への参加は,日本にとって,美術学校・博物館・美術団体など文明国としての美術体制がようやく整い,西洋から輸入した「美術」概念が定着する一方で、,国風美術が洗練されていった明治20年代を経て,維新後30年余の成果がいよいよ試される好機であった。それだけに関係者の落胆は大きかったといえよう。陶磁器部門の審査官として現地へ赴いた河原徳立は,日本美術協会の講演で,次のように現地の様子を報告している。此十九世紀と二十世紀とを比べて見ますに二十世紀の意匠の変化と云ふ者は大層違ツて居ツた様に思ひます,日本はドウだと云ふとトンと意匠の変りがないと云ツて宜い位で,(中略)審査官などの評でも此錦花鳥の模様は日本では何百年前に出来た模様か,それは二十世紀に代はる所の博覧会の出品と云ふに其心持がどう云ふ訳であるか出品した品物は古物を模造したのでもなく唯模様だけ旧いのを使ツて形状だけを考へて出したのであらうこんな古い模様の物を出したのはどう云ふ心得だかと小言を云ツて居りました(注18)まさに,それまで「東京絵付」をはじめとする日本の工芸界が行ってきた図案制作そのものが,各国の審査官から非難されることになったのである。さらに河原は続け,特に批判が集中したのは古典を模する方法であったことを報告している。新らしい模様と云ふ物はどうも私の見ました所で少ない,(中略)それは陶器ばかりではない銅器でも漆器でもさうだが皆少しく好い模様だと云ふと法隆寺とか正倉院とか何とか云ふ模様で上手に物に応用して能く出来て居ツたが新らしい模様と云ふものは少しも無い,と其小言は青蝿聴きました,(注目)以上のような体験から,河原は日本の旧弊な図案を変えていかなければならないと確信し,聴衆に次のように呼びかけている。好い模様と云へば古代模様,新らしい模様が偶に附いて居ると何となく本当に’整わないと云ふのが多いのは如何にも残念に,思ひました,それで以後の博覧会にはドウにか絵にせよ模様にせよ新らしい趣向を考えたいものだと思ツて居ります,(注20)645

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