鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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明治33年(1900)のパリ万国博覧会は,「アール・ヌーヴォーの勝利jを人々に認識させたことで知られている。ヨーロッパで、新しい工芸運動が興隆していたこの時期,いかにも19世紀的な応用美術の方法で,古典の模倣による図案制作を続けていた日本の工芸が悪評を受けたことは,至極当然の成りゆきであったといえよう。4 古典模倣の行く末明治33年(1900)のパリ万国博覧会において外国審査官から寄せられた批判は,前述のように,明治前期の日本の図案制作の本質を突くものであった。つまり,古典模倣主義に対する批判である。後の世代の図案家で,東京高等工業学校工業図案科でデザイン教育にあたった松岡寿は,明治前期の図案制作について次のように評している。此時代の図案なるものは徹頭徹尾古物模倣主義であって古実にさへ蔽ってをればそれでよく,若しそれが法隆寺の何々に一致せぬといふやうな場合には其の図案が如何に優く出来てゐてもこれは図案に非ずとして長官の一喝を喰ったといふことである。(注21)松岡は同39年(1906)から東京高等工業学校工業図案科長となったが,それまで同校の工業図案科長を務めたのは,同6年(1873)ウィーン万国博覧会の伝習生で応用美術の技術を学んだ平山英三であった。ウィーン美術工業学校から帰ったのち,製品画図掛に勤務して,これまで述べてきた従来型の図案制作にあたった人物である。平山が科長を務めた時代の,明治37年(1904)の工業図案科のカリキュラムには,「有職故実Jという科目があり,古典の模倣を重視したデザイン教育が行われていたことをうかがわせる(注22)。工業図案科長のポストが平山から松岡に代わった理由については諸説あるようだが,上記のような松岡の言説を読む限り,科長の交代により工業図案科のデザイン思想が大きく変化したことは間違いないだろう。明治後期,このように徐々にデザイン界や工芸界において新旧の交代が行われ,古典模倣を主眼とする図案制作が凌駕されるようになる。しかし,デザインをするときに古典的な美術工芸品を模倣,あるいは参考にすることが絶えてしまったわけではない。確かに先端のデザイン理論によって否定され,それら一部の作品からは消えたかもしれないが,美術工芸の世界では脈々と続けられ,現在に至っている。明治期に確立された古典模倣の方法が後代に与えた影響は,非常に大きいのである。-646-

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