鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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景観の美しい景色36景を,康照的年(1707)に典礼問題で入華していたプロパンダ派のマテオ・リパ(中国名馬国賢)の指導のもとに中国人画家沈輸に写生させ,それを朱生,梅裕鳳が刻して,内府本『御製避暑山荘園詠』が刊行され,後にその刊本を元に銅版画で〈御製避暑三十六景図〉と題する画冊を完成させたもので,康照末年などの諸説はあるが,黒田源次氏が述べているように(注1),乾隆後期もしくは晩期に近い作品と考える。〈平定伊整回部得勝図〉を製作するにあたって,刻師,刷師を国外に求めねばならない状況下にあって,〈御製・避暑三十六景図}36図を完成させるまでにはそれなりの時間が費やされたと考えられ,乾隆後期作とするのは妥当な年代と考えられる。道光9年(1829)の〈平定準嘱爾得勝図〉以外の得勝図,つまり3{平定両金川得勝図}' 4 {平定台湾得勝図}' 5 {平定安南得勝図),6 {平定廓爾亜略得勝図>.7 {平定雲貴得勝図>.8 {平定湖南得勝図〉の6種は乾隆50年(1785)から同60年(1795)の聞に制作された作品と考えられ,道光9年の〈平定準曙爾得勝図〉の作品は例外として,中国を代表する銅版画の諸作品はこのほぼ10年間に集中し,以後これといった作品は登場しなくなる。次に中国人自身による銅版画について触れるのに先だ、って,16図から成る〈平定伊整回部得勝図〉若しくは〈彊回戦図〉〈準回両部平定得勝図〉と称される作品について触れていこう。この戦いは乾隆帝が現在の新彊方面の準鴫爾部,回彊部を乾隆20年(1755)から同25年(1760)にかけて平定し,清朝の西域への版図が拡大した戦いで,清朝にとっては重要な意味を持つ。そして,この戦いの重要性を記録し後世に伝えると共に広く周知させるために,乾隆帝は銅版画を制作することとなった。そして,この戦いの中で最も重要な戦いの場面16ケ所を選ぴ,それを当時の画院に奉仕していた,絵心のある西洋人宣教師4人に原画を描かせた。その4人とは,ジョゼッペ・カステイリオーネ(中国名・郎世寧1688〜1766),ジャン・ドニ・アテイレ(中国名・巴徳尼1702〜68),イグナテイウス・ジッヒェルバルト(中国名・支啓蒙1708〜80)の3人のイエズ、ス会宣教師と,アウグステイヌス会の宣教師であるジャン・ダマセーヌ(中国名・安若望不詳〜1781)の4人である。彼らは乾隆帝の意向を受けて,2年間で原画を描き,その原画は広東のフランス東インド会社を経由してパリに送られた。パリでは銅版画彫刻の中心的な存在の一人であったニコラウス・コシェンを指導者として,その下に6人以上の技術的に確かな彫刻者を揃え制作が開始された。その時,原画を忠実に刻するというよりも,中国の皇帝の存在を強く意識し,品格があって勇壮651

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