な皇帝の軍隊,つまり清朝軍の姿を描くことが重要であったため,原画の細部と若干の差異があってもそれほど重要な問題ではなかった。言葉を変えればそれだけ発注者のことを理解できる技量をもった版刻,刷りの技術者が揃っていたと云うことでもある。本作品は中国の皇帝が西洋人に全ての過程(原画から彫刻,刷り,刷る紙の選択等々)を一任して完成させた西洋銅版画である。ただ中国版画の関わりから言えば,時の皇帝が銅版画の持つ意味を認め銅版画制作を奨励させて行く重要な要因となったと云うことである。以後,銅版画は圏内で中国人の手によって制作されるようになる。そこには外国に一々発注していては時聞がかかりすぎると言う物理的理由も加味されていたようではあるが,積極的に銅版画の制作が開始されることになる。しかし,西洋のように銅版画の歴史は長くあったわけではないので,〈平定伊埜田部得勝図〉の彫刻者のような優れた人材が居るはずもなく,カステイリオーネらの絵心のあった宣教師達も,理屈では知っていてもいざ具体的な指導はなかなか難しいものであったと言える。このように中国の銅版画は,指導者自身も試行錯誤を重ね,道具類も工夫して製作しなければならないという模索の中から出発し,乾隆期に開花する。また,乾隆期に開花して行く素地は,早くも康照50年頃にはあったことを,パリの『回想記』などをもとに小野忠重氏は示唆しているが,具体的な検証を得られていないので,結論は避け,今回は小野氏の記述を紹介することにとどめて古く(注2)。それでは次に中国人の手による銅版画について紹介してみたい。先ず最初に挙げられるのは〈園明圏西洋水法図〉であろう。国明園は康照48年(1708)から,康照帝,羅正帝,乾隆帝の三世代にかけて,北京の北の郊外に建てられた清代の一大離宮である。そして銅版画となっている西洋建築物は,乾隆期に増築された長春園の中に建てられた。この西洋建築物は,乾隆帝がカスティリオーネによって推挙されたブノワ(中国名・蒋友仁)に命じて,ベルサイユ宮殿を模し,さらに噴水「西洋水法」を随所に設けた建物で,材料は総て大理石で,誠に賛を尽くした建築物であった。本作品は20図から成り,大半は設計図面を思わせるような遠近法によって描かれているが,20図の内〈迷路〉は惰撒図で描き,〈線法山東門〉〈湖東線法画〉は遠方が見通せる遠近法で描き,絵画的鑑賞に耐えられる作品となっている。他の作品は,前述のように建築的手法で建物を正面から描き,絵画的面白さがやや欠ける作品である。技術的には,他の銅版画(各種の得勝図類)に見られるような画一的な線描とは異なり,強弱の線を多用したり,線の重ね方についても工夫の痕跡が認められるが功を奏していない。652
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