蘇州版画について清代の蘇州は商業都市として,また文化都市としても栄えていた。その蘇州に明代に文化都市として栄えた金陵(南京)から,文化人と共に印刷技術が移入され,多くの印刷物や版画類が製作されることとなる。その印刷工房の中心地となったのが桃花鳴で,その地で生産された版画類をその都市の名前を冠して蘇州版画,または姑蘇版と言う。西洋銅版画(エングレーヴイング技法)の影響を受けた一枚刷りの大型版画を概して蘇州版画と称しているが,それは蘇州で製作されていた版画,印刷物の一部分を指している。いわゆる蘇州版画の前提として挙げられることに,即く西洋銅版画の影響を挙げ,中国絵画の存在を希有に扱いがちであるが,実際には{府搬図法を用いた中国画の存在を第一義的にとり扱うべきであるし,画題的にも〈漁樵耕図〉〈雪中送炭図〉〈梅雪迎春図〉〈歳朝図〉〈西湖勝景〉〈全本西廟記〉などからもこのことは理解できるものと思える。但し〈姑蘇高年橋〉〈江蘇風景図〉〈姑蘇間門図〉〈三百六十行図〉等については,ブラウン/ホーゲンベルク著『世界の都市』などの銅版画都市図に示唆を受けている点は察せられる。それではどのような点に,西洋画の影響を受けて消化しているか,技術的な表現から見ると,陰影の表現方法に顕著に表れている。つまり,横線の重ね方を調整し,陰影の強弱を表現する方法と,細かく縦横に糠を走らせ強い陰影を付ける方法は,まさに銅版画の陰影の表現方法を踏襲している。また図中に表れる人物に立体感を持たせる為に,人物が着用している着物に斜線を重ね,陰影を付けたり,人影の付け方なども同様の方法である。さらに図像から見た場合,雲形の表現方法にある。全体的な構図法として,消失点を上段の右に設けた線遠近法などから,明らかに西洋銅版画からの受容ということは理解できる。その西洋銅版画からの受容を,東洋画の軸仕立て(蘇州版画は基本的には民間版画であることから,仮表装的なものが多かったと思われる。)の縦絵の中に消化しているところに中国画人の技量を見る。また,銅版画の表現が素直に受入やすかったのは,木版画と同様に線描表現であることも,蘇州洋風版画の成立に幸いしている。年代についてであるが,現存する蘇州版画の上限は,王舎城美術賓物館の〈姑蘇間門図〉の羅正12年(1734)で,この他に制作年の知れる作品として,神戸市立博物館の乾隆5年(1740)の〈姑蘇高年橋〉,国立国会図書館の乾隆27年(1762)の〈姑蘇名獅子林図〉などがあって,洋風要素を顕著に著している蘇州版画は羅正から乾隆年聞が最盛期で,嘉慶,道光初年と踏襲されていくが,都市図などの優れた作品は乾隆期-654-
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