終わりに銅版画,洋風蘇州版画,画冊版本と触れてきたわけだが,この他に重要なものにキリスト教に関する事がある。例えば,万暦32年(1604)の『程氏墨苑Jのマリア像について,本図を切っ掛けにして考えた時,東洋人の画家の流転も同時に考案する端緒となりうる。ヒエロニムス・ナタリス著と『福音書画伝』(1593)と『天主降生出像経解j(崇禎10'1637),『諦念仏珠規程』(明本)との関係の中に含まれる,東洋人の西洋画の受容の姿。また理論的なことからは,イタリア人画家アンドレーア・ポツツオ著『画家と建築家のための遠近法』の図様の多くを借用し,羅正7年(1729)に刊行した,年希焼著『視学精誼』は,中国の遠近法の著書として正確度の高いもので,その著書が中国の絵画界にもたらした影響はどのようなものであったか。さらには清代後期に民間に流布した眼鏡絵の存在は,中国が西洋画の受容とその後の展開を考える上で重要な課題を残して一時は終える。イタリアのイエズス会士マテオ・リッチ(中国名・利璃輩)が,万暦11年(1583)に,広東に入華して以来,数多くの書物や銅版画が請来されたが,中国絵画の中にその影響を表したのは,明末期もしくは清代初期のことであるが,中国版画の世界では版本や一部の宗教的版本にその兆候を著わしたが,以後暫くの期間を置いて,康照年聞から版本や画冊に受容の現象が顕著に表れだし,民間に於いても康照末年頃より,蘇州版画などに代表される作品が表れ,民間での受容は年画,眼鏡絵などの遊び絵の中へと広がりを見せ,清末に新たに登場してくる西洋近代絵画の影響を受けるまで継承されて行く。さらに蘇州版画は海を渡り我が国へも,蘇州経由の西洋画の受容をもたらしたりする。その一方銅版画は,乾隆50年から同60年の10年間を最盛期として,幾つかの例外を除いて衰退して行き,中国,ましてや蘇州版画のような展開はなかった。つまり,中国に於ける銅版画の制作には,先に述べていたように,プレス機などの各種の道具類,加えて油性インクが必要とされる等の物理的理由が,民間の中に広がりを見せない原因と察せられる。それに比べ蘇州版画等の,木版による洋風表現は,表現方法は取り入れるが,技術的には,新たに道具を揃えたり,インクに工夫を凝らしたりする必要はなく,あまねく中国国内に流布している木版印刷技術に満足しており,印刷技術の刷新などは必要なく,大量の版材となる木材資源を背景に,馬連一つでことができる安価な木版印刷に依拠していた。-656-
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