鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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注(2)小野忠重『支那版画叢考』双林杜1944年(1) 黒田源次「銅版園明園図少巧」『エッチング』日本エッチング杜1938年「銅版画の技術は,これより先に典櫨問題に関して派遣されたイタリアのプロパガンダ派教工マテオ・リパ(馬国賢)が康照五0年頃試作して康照帝の御嘉賞を蒙り,後に「皇輿全覧図」の銅刻も行った。このことについては重ねて後に説くが,とに角,リパは印刷機械も考案し,支那画人にもこの技術を手伝はせているのだから,高更清廷のこの戦図を銅版にする企画は手がかりのないものではなかったらう。」頁を変えて「とも角も銅版器具も苦心自作し,薬品も禁中の薬局の協力を得て調整し,その技術を支那の画人に伝へたというから,かつて支那画の驚異だった銅版画はぽつぽつ支那自らのものとなって来たのである。」657

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