鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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目すると,御用のみならず古画や中国絵画と関心が多岐に亘っている。まず,初参勤を終えた直後の寛政2年(1790),矢野良勝に「領内名勝図巻jの制作に取りかからせた事業が最も早い。同5年(1793)には,藩士の大矢野家から預かっていた「蒙古襲来絵調J(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)を模本作成のために江戸へ持参し,同9年(1797)には,藩校である時習館において修理もさせている(注5)。また,文化元年(1804)には,雪舟「富士」(伝雪舟筆「富士三保清見寺図」)を老中の土井大炊頭利和へ見せている(注6)。さらには文化4年(1807),肥後狩野の伊圭弘信へ命じて京大坂の唐絵を吟味させ購入し,以降文政年間にかけて精力的な中国絵画蒐集を行っている。文化8年(1811)に狩野晴川院に伝仇英筆「青緑山水図巻jを鑑定させたと思われるが,これも蒐集事業の一環であったのだろう。また,晴川院にはこの頃に「春秋高隠図Jを注文したと考えられる(注7)。膏藷の中国絵画蒐集に関する資料としては『古画御掛物之帳』がある(注8)。本資料には,永青文庫の所蔵する中国絵画に合致する作品を数多く認めることができる。しかしその一方で,能阿弥,雪舟,雪村,直庵,永徳などが記録されるものの,合致する作品を認めることができず,その後の収蔵経緯に不明なものも少なくない。さてその後,膏姦は文化7年(1810)に家督を譲り,隠居した。それからは不定期に江戸と熊本を往復した生活を送り,天保6年(1835)77歳で江戸にて残している。誼号は諦了院。かつて公刊された略歴を見ても膏姦の政治に関する主だ、った事績は,天明8年(1788)の禁裏炎上による造営のために20万両を献納したことや寛政年間に熊本藩内で立て続けに起きた津波と洪水の対策に着手したことが記される程度である(注9)。8代重賢の藩政改革の成功による恩恵からも文化面へ精力的に力を注ぐことができたのであろう。自らも絵を描くことがままあったようで,自筆の写生画や動物画が数多く残されている。また,『古画御掛物之帳』に見られるように,むしろ隠居後の25年間に絵画蒐集へ熱を入れるなどして精力的に絵画事業を展開したようだ。さて,没後の資料ではあるが,膏姦の収蔵品を知る手掛かりとして遺品の形見分記録『諦了院様御遺物被進被遺被下之調Jを紹介する。本資料は年代不明だが,自筆書画の形見分記録『諦了院様御筆並御画被進被下之調』が天保7年(1836)であることから同時期の成立と思われる。武具,調度品,茶道具,絵画と様々な遺品を,太守様(11代膏樹)に始まり親族,分家,諸大名,寺院,そして家臣へと形見分した目録であ661

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