鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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ρhu が多く見られ,「東海道勝景」も確認された。もっとも牧諮,雪舟,探幽などに伝存しないものもいくつか記録されていることも注意すべきであろう。3.谷文晃筆「東海道勝景」の制作背景では,藩政史資料に見出した伝存作品を例にとり,その収蔵経緯について考察してみたい。ここでは谷文晃筆「東海道勝景」がどのような制作背景のもとで斉慈の収蔵するところとなったのかを推測することで,細川家と近世画壇との関わりの一面を明らかにする。まず膏藷(細川家)と東海道の関係を,そして膏姦と谷文晃の接点についてのふたつの観点から行う。そもそも細川家と東海道の関係は浅くない。まず,藩主となればl年おきの参勤交代のおりに東海道を利用することが必然的である。熊本藩は,藩の飛地である鶴崎(大分県)まで陸路を取り,瀬戸内海を大坂または室津(兵庫県)まで船で渡り,そこからは東海道を江戸へ向かう。もっとも帰りは,中仙道などの別のルートを利用することもあった。ふたつめに享和3年(1803)5月,幕府から東海道其他諸川修理助役を,翌月には関東J11々波方手伝御用を命ぜられている事実が注目される。熊本藩は,それらに対する莫大な出費を科せられることになるが,その甲斐あって12月には,賞賜があった(注12)。勿論,斉姦自らが足を運び直接指導をしたものではないが,参勤交代で馴染みのある東海道の河川を修理する事業だけに,その思い入れもあったであろう。その理由からか「東海道勝景」には,「富士川」「阿部JII J「大井川jを主題として取り上げた場面が特に印象的に描かれている。さらに熊本城下の細川家庭園である水前寺成趣苑は,寛文11年(1671)' 5代綱利によって東海道を回遊式庭園として再現されたものであり,膏蕊もしばしば通い心を休めた地であった。以上のように東海道を主題とする本作品の制作背景に,これら細川家そして斉姦個人と東海道との因縁が大きく関与したのではないかと思われる。では,膏姦と谷文晃との接点はどこにあるのだろうか。文晃を庇護した松平定信の存在が,当然,想起されよう。文晃が紀州徳川治宝の命により「熊野舟行図巻」(山形県立美術館所蔵)を制作した例にあるように,定信をはじめ大名家からの注文を少なからず受けたことは良く知られるところである。さて,細川家と定信の交流は8代重賢に始まった。「肥後の鳳風」と称賛された重賢の藩政改革は,定信の寛政の改革に多大な影響を与えたといわれる。老中を退いた後も,細川家主催の犬追物見物に招かれっd

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