鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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る。カールスの『風景画についての9つの書簡Jの前半においては,フリードリヒに代表される心情的・主観的風景画を論じていたのに対して,後半はこれとは異なった論を展開するようになるが,その変化をもたらした経緯,事情が第6書簡の初めから述べられている(注11)。それは,カールスが「ゲーテの自然科学のための第3号に,雲の形態についての彼の洞察と,これに加えられた美しい詩(ハワードの名誉を記念して)Jを読んで以来のことであり,これによって「より高い認識に基礎づけられた芸術美の理念」に到達したというのである。ゲーテの雲についての詩の中に,長い間の自然研究の成果と「知の極限jをみたカールスは,自然研究によって認識される,より真実なる自然の法則に即した表現を風景画に求めるようになる。それこそが,「真の意味で神秘的な,ゲーテの言う秘教的な」ものであるとし,「私はあの偏狭な迷信と言いたくなるような神秘説を好まない。それは因習や伝承によって与えられる,何らかの象徴をいきいきとした芸術の領域に密かに持ち込むのである。つまり,十字架やロザリオの神秘といったものであり,それは本来そこから出てきた,そして,そこにとどまることにおいてのみ理解される信仰の領域へ少なくとも追放されるべきものであるjと説く。ここでは名指しはしていないが,あたかも十字架等のキリスト教的な象徴物を配したフリードリヒ風の風景画を引き合いに出して,これを否定するかのような主張をしている。真の意味で神秘なのは,自然から離反した伝承や因習の世界にあるのではなく自然そのものの内にあり,「神秘なものとは,明るみにおいて満ちている自然だけであり,それは自然や神に対する敬度以上のなにものをも欲せず,それゆえに,全ての時代に,あらゆる民族が理解するものであるに違いない」。そして,カールスによれば,風景画にとって「この神秘な生命を把握すること以上に崇高Jなことはないのである。ここでは現実の自然現象をとらえる科学者としての態度が顕著に表現されているが,それが依然として自然を神的存在の相のもとにみる宗教的態度一一汎神論的自然観一ーと融合している点で,近現代的な意味での「自然科学jにおける自然把握の態度とは明らかに異なっている。ハワードに刺激され,雲研究に専念したゲーテの雲の詩に触れたことを契機に,芸術論においてカールスの中に,気分情調としての自然よりも,現実のリアルな自然現象,自然の法則そのものの知的な把握によって,根源的な「自然の生命Jをとらえ,表現すべきとする主張が強く現れてきたのである。それは,い-670-

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