@幕末明治期の写真導入を通してみた日本近代の建築認識研究一一建築家と写真表現の関係を中心に一一研究者:奈良国立文化財研究所研究員清水重敦1 建築家と写真明治26年に帝国大学工科大学造家学科を卒業した建築家長野宇平治は,高等中学校時代に見た欧米の建築写真が,建築家という職業を選択するきっかけとなったことを自伝に述懐している。建築家でもある教授小島憲之から写真を見せてもらった際のインパクトを,次のように語る。「当時では大学以外の場所で欧米建築写真や図面を見る機会は絶無と言ってもよい位だから,一同の好奇心を起したこと多大なもので,建築なるものは,形ちと相とに於て大規模のもので,それに関するわざが従来想像した程度の様な浅薄なものでは無いことを覚らしめた様子であった」(注l)。ヨーロッパに建つ建築を実見する機会のない人物が,西洋建築を建てるための学を選択するという矛盾に満ちた状況のなか,日本に本格的な西洋建築が建ち始める明治20年代までは,写真からの情報は強烈に人を惹き付けたに違いない。帝国大学工科大学造家学科にヨーロッパ伝来の建築写真が大量に用意されていたことはよく知られている(注2)。もともとは工部美術学校の教材として将来されたものが,美術学校廃校とともに工部大学校に移管され,工科大学造家学科の備品となったもので,96枚が現存している。全紙大の鮮明な写真であり,西洋建築を直接見ることができなかった建築家たちに強い刺激を与えたであろうことは想像に難くない。しかし長野の回想にあるように,大学で建築学を学ぶごく少数の人間にしか見ることのできない,閉じた情報であった。そもそもこの写真は,イタリアで販売されていた美術写真であった(注3)。記録写真,美術写真としてヨーロッパで流通し始めていたこれらの建築写真は日本に持ち込まれると,19世紀の歴史主義建築観と相侠って,最新情報を{云える希少なニュースソースへと転換される。幕末から明治初期の日本では,建築写真はまず名所写真として流布していく。近世の名所図絵,錦絵の延長上に写真は認識されていき,なかでも次々と建てられていく洋風建築は,そのニュース性により,新名所として続々写真に撮されていった。この初期的段階を崩し,建築写真の新しい価値を発生させていくのが,「記録」行為である。一方で明治4年の「旧江戸城写真帖」,5年壬申宝物検査と古建築が撮影され,また一677
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