鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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phu 円i方では明治10年代に山形の三島通庸による土木事業,都市改造の記録,そして同じ頃から北海道開拓使の建設記録が撮影され,新しい国家の枠組みを示す視覚的な道具として利用されていく。明治初期までの建築写真は,名所写真として流布するか,あるいは国家を背景に閉じた情報としてのみ存在するかのどちらかであり,それは建築家にとっても同じことであった。建築家がこうした名所写真でもなく,閉じた情報としての段階も越えて,積極的に写真を活用しだすのは,これに続く明治20年代からとなる。以下,情報流通のなかでの建築写真,ついで記録としての建築写真という観点から,建築家にとっての写真を考察していきたい。まず,情報流通の問題として,明治19年1月に創刊される造家学会の機関誌『建築雑誌』における写真使用について考えてみたい(注4)。写真使用の初例は明治23年5月,辰野金吾設計の渋j畢栄一邸の竣工写真で,巻末に専用紙に印刷された2枚の写真が付けられている〔図1〕。「アートタイプjと名付けられたこの印刷は,小川一虞のコロタイプ印刷に遅れることわずかl年ですでに登場しており,この後頻繁に写真が載せられていく。写真印刷が導入される以前は,銅版画によるパースが挿図として使われている。しかし創刊号にのせられた北京日本公使館本館のパースを見ると,写真の構図を初梯とさせるものとなっている〔図2〕。これは写真製版技術がないために,写真を銅版画に書き換えて掲載したものと考えてよいだろう。写真というメディアに寄せる期待のほどがうかがえる。写真が別紙ではなく,本文中に挿入されるようになるのは,その後しばらくおいて,明治30年代からとなる。まず最初の段階として,専用紙に印刷された写真のみの丁が,本文の丁に挟み込まれるようになる。明治36年5月,保岡勝也による第五囲内国勧業博覧会の報告が初例である(注5)。次の段階として,本文と同一頁に直接写真が挿入されていく。明治37年6月の三橋四郎による紀行文が初例であるが,この写真はつぶれてほとんど見えない(注6)。以後,この種の紀行文に多数の写真が使われるようになり,明治39年ころには本文中に挿入された写真の質も安定してくる。こうした写真使用方法の変化は,単に印刷技術が改良されたということのみならず,2 『建築雑誌』における写真

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