鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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伝える情報の質的変化への対応という面も無視できない。写真が新しい建築を印象づけるすぐれたメディアであることには当初から気付かれているが,『建築雑誌』では最初期の写真は竣工写真にほぼ限定されていた。その質が変わっていくのは明治30年代半ばからである。上述の内国勧業博覧会報告や紀行文のほか,明治39年11月には佐野利器によるカリフォルニア地震の被害報告において写真が多用されている(注7)。巻末写真の方も明治36年4月には日本の古建築の写真が載せられるようになっていく〔図6〕。とりわけ地震被害については,早くから写真というメディアの有効性が発揮されている。この時期までの地震の写真記録としては,まず明治24年の濃尾地震に際し,帝国大学工科大学教授ミルンと,バルトンとによるコロタイプ写真集TheGreat Earthquake in Japan, 1891の出版があった〔図3〕(注8)。小川一翼撮影になるこの写真集は,その後複数種の復刻版がでるほど大きなインパクトを持ったものであった。ミルン,バルトンは共に工科大学造家学科で講義を行っており,この写真集が建築家たちに大きな刺激を与えたであろうことは想像に難くない。また,明治27年6月20日に東京で起こった地震では,大きな被害を受けた旧工部大学校校舎などの写真が撮影されている(注9)。以上を通してみるなら,紀行や古建築など,建築という動かないものを視覚的に伝えるメディアとして,そして博覧会,地震といった建築的事件を伝えるメディアとして,写真の有効性がより強く認識されていったといえるだろう。さて,明治36年4月より『建築雑誌』の巻末を飾るようになる古建築の写真は,奈良県庁に現存するガラス乾板が原版となっている〔図6〕(注10)。雑誌に掲載された写真と,その原版の撮影意図をリンクさせて考えられる事例として,これらの古建築の記録写真を通して,写真と建築家の関係を具体的に掘り下げていくことにしたい。明治以降に撮影された古建築の写真として知られているものには,京都・奈良の古社寺の写真,日光東照宮の写真,全国の城郭の写真などがある。城郭の破却や廃仏致釈に際し,失われていく建物を記録するという文脈と,明治6年に行われたウィーン万博において日本の宝物を紹介するという文脈とが交錯して,古建築が撮影の対象とされていくことはあらためて言うまでもない。また,一般向けの絵はがきや名所写真3 古建築の記録写真679

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