鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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Y王(1) 「…然又云不可園怨及朋友鳴呼興買怨干同袖寧流臭於千載邪…」杉田玄白『解体新(2) 杉田玄白は「…一日もはやくこの一部を用立つやうになし見たしと志をおこせし室昔筆に関係付ける資料はない。佐竹曙山がコンパスを使用して「画図理解jを書いているが,直武が鉛筆を使用しても不思議で、はない。おわりに直武は約6カ月という短期間に多数の西洋の銅板画に接した。そして銅板画をトレースすることにより,新しい線の使い方を習得した。従来二次元しか表現出来なかったものが,線の組み合わせを変えるだけで,三次元,立体感,写実性を表現出来る陰景タ法を習った。直武はその獲得した新技術を伝統的な日本画技に導入し,西洋画でもない,日本画でもない,洋風絵画,秋田蘭画を形成した。そんな直武は医学書にとどまらず,ヨンストンの[鳥獣魚介虫譜J,ブルーシュの『自然の景観』等と他の洋書に来庁案を求めていくのだが,直武の洋風画家としての成功は,最初に多量の医学書の銅キ反画をトレースすることにより習得した確実な基本技法に委ねる所が大きい。書』序図,東武書林1774年,21頁ことゆえ,他に望むところもなく,一日会して解するところはその夜翻訳して草稿を立て,それにつきではその訳述の仕かたを種々様々に考へ直せしこと,四年の間,草稿は十一度まで認めかへて板下に渡すやうになり,遂に解体新書翻訳の業成就したり。…J(杉田玄白著,緒方富雄校注『蘭学事始』岩波文庫青20-1 岩波書店38刷1989, 42-43頁)と回想している。「四年の間jとあるが,明のであるから,玄白の計算では安永5年(1775)と言うことになる。『解体新書』が出版されたのが安永3年(1774)8月であるから,3年と5か月,約4年という歳月を翻訳に費やしたことになる。しかし,吉雄永章(吉雄幸左衛門)が安永2年(1773)3月に書いた『解体新書』の「序」によると,前野良沢が玄白を連れて訪問し,吉雄に『解体新書』の草稿を読んでほしいと持ってきた。吉雄幸左衛門は「…余受けてこれを読むに,詳豪明単にして,その事言,これを彼に校するに,ーも差式する事なし。乃ちその篤好なることかくの知きに感じ,覚えず法和8年(1771)の3月4日に始めて解剖を見学,その翌日の5日に翻訳を始めた-59-

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