として販売されたものも数多く残されている。なかでも奈良を中心とした古社寺の建築は,宝物保護施策の中でまとまった撮影が繰り返されているので,以下,奈良に限定して考察を進めていきたい。宝物写真は,明治5年の壬申宝物検査,そして明治20年代,臨時全国宝物取調局へとつながっていく宝物監査と,国家施策のなかで大量に撮影される(注11)。明治20年代後半からは,工藤利三郎をはじめとする写真家が個人的な撮影を開始していく。このなかで,古建築を被写体にしたものとなると,壬申検査においてすでに横山松三郎が撮影しているものの,それ以降しばらくあき,明治26年以降の工藤利三郎を皮切りに,明治30年前後になってやっと本格化する。明治20年代から30年代にかけての奈良の古建築の写真には,明治29年頃の撮影になるコロタイプ印刷写真集「法隆寺諸堂宇撮影帖J(法隆寺蔵)(注12),明治30年以降撮影の奈良県庁所蔵ガラス乾板(以下「奈良県庁写真jと略記)(注13),明治26年以降大正期にかけての工藤利三郎撮影ガラス乾板(奈良市写真美術館所蔵,以下「工藤写真jと略記)(注14),および工藤によるコロタイプ写真集『日本精華』(全11巻,明治41年〜大正15年)(注15)などがある。まずはそれぞれの写真の関係と撮影意図を整理しておきたい。「法隆寺諸堂宇撮影帖」(注16)。この写真のうち,3枚は工藤利三郎ガラス乾板に同一の写真があり〔図4〕,少なくとも工藤が撮影に参加していることがわかる。奈良県庁写真なっており,修理前,修理後の写真が同じ構図で撮されているものが多いことから,修理に際して撮影されたものであろうと考えられているが,撮影年代,意図ともに判然としていない。明治30年代という早い時期に古社寺修理にともなって撮影された写真は,奈良県以外では発見されておらず,建造物の資料としてだけでなく,写真としても珍しいものである。そこで古社寺修理竣工の際に県庁に提出された精算書を見てみたところ,雑費中に必ず写真撮影費が入っていることが確認された(注17)。例えば明治30年3月から31年10月まで修理が行われた法起寺三重塔では,事務所雑費のなかから,「製図参考用jとして四切大写真5枚が14円90銭で計上されている。また,この法起寺三重塔と,長福寺本堂(明治37年9月〜38年11月修理),唐招提寺講堂(明治38高田良信によれば,明治29年ころに撮影されたものである明治30年から開始される古社寺修理の対象となった建物が被写体と-680-
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