鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
691/759

。。年10月〜41年4月修理)の各修理に関しては,写真撮影についての文書が残されており,法起寺三重塔,長福寺本堂は北村太一の撮影(注18),唐招提寺講堂は工藤利三郎の撮影であることがわかった(注19)。法起寺の場合は,明治31年8月27日,「法起寺三重塔修繕現場後日参考ノ為メ撮影致置度jとして修理現場写真2枚を,そして明治31年9月30日,同様の目的で竣工写真2枚を北村太一に撮影させる旨,現場の主幹技手であった藤本民治郎より県内務部へ伺いが出されている(注20)。たしかに奈良県庁所蔵写真には,法起寺三重塔現場写真2枚と,竣工写真2枚が含まれている〔図5,6〕。よって,この写真群は古社寺修理に際して撮影されたものであると断定できる。古建築の修理前,修理後の写真を記録として撮り,後世に残していくという発想がここにはある。建造物修理は建物の建設当初の姿になるべく戻そうとする理念に基づいて行われているので,修理前の姿からは大きく変化することが多い。関野貞をはじめとする技師たちは,修理前の状態を記録するために,なるべく多くの図面を作成することを心がけており,写真撮影もその一環として行われたことになる。工藤写真工藤利三郎撮影の写真は,明治41年より大正15年にかけて出版された『日本精華』によって知られている。奈良市写真美術館所蔵ガラス乾板は,概ねこの『日本精華』に掲載された写真の原版を中心に構成されている。撮影時期が長期にわたるが,既述の通り,明治29年「法隆寺諸堂宇撮影帖」に含まれる写真,および明治41年の唐招提寺講堂写真は年代が判明した。その他の写真では,『日本精華』第一輯にも掲載されている新薬師寺本堂の写真が,修理に際して撮られたものではないかと考えられる〔図7〕。新薬師寺本堂は明治30年1月から31年4月まで修理が行われた,古社寺保存法による修理第一号の建物であるが,奈良県庁写真にはその竣工写真が含まれていない。この写真には監督技師であった関野貞らしき人物が写っている。このように修理関係者が建物前に並んで撮られた写真は,奈良県庁写真にはよく見られる。また,本堂右前に立つ樹木の樹形が,奈良県庁写真に含まれている修理前に撮影された写真とほぼ同じであることから〔図8J'この写真は新薬師寺本堂修理工事の竣工写真として明治31年頃に撮影されたものと考えられる。以上を通してみると,工藤利三郎の活動を中心に,奈良の古建築撮影を整理することができる。明治20年代に営業写真家の工藤らが古建築の撮影をはじめ,明治30年以降,古社寺修理の開始と共に,記録写真の撮影へと巻き込まれていく。そしてこれ以

元のページ  ../index.html#691

このブックを見る