鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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phu 降,美術写真としての古建築の写真が数多く撮られるようになっていく。次に,撮られた写真自体について見ていきたい。まず明治5年の横山松三郎撮影写真〔図9〕と奈良県庁写真〔図10〕とを比較してみる。明治30年代の撮影になる奈良県庁写真の法隆寺中門は垂直方向の歪みが少なく,建物のマッスがよく表現されている。一方,横山撮影の法隆寺大講堂の写真は,水平,垂直共に歪みがきっく,パースパクテイヴを過剰に効かせている。また,人物が多数写し込まれており,その配置もー克ランダムに見えるが,やはりパースベクティヴの効果を狙って配置したように見受けられる。こうした特徴は,この写真に限ったものではなく,他の写真にも見ることができる。建物の歪みはレンズの問題によるところ大であろう。人物を撮し込むのも初期の建築写真にはよく見られる手法で,スケール代わりにしたものと考えられる。しかしこの人物配置とあわせて考えると,撮影者がこうした過剰なパースペクテイヴ効果を意図的に演出したように思われる。横山の写真を奈良県庁写真と比較したときに,もうl点印象づけられるのは,建物を正面から写す際,引きを大きくとるという点である。それゆえに撮影者と建築との間にある空間が写し込まれ,画面に奥行きを生じさせている。奈良県庁写真の方は建物を個体として写す意図がはっきりと見えるのに対し,横山の写真は周辺状況のなかで建物が置かれる位置を表現していることが読みとれる。正面から写しているにも関わらず,建物をフレームからはみ出させ,隣接する建物を写し込んでいる写真などは,まさにそうした意図を示すものであろう〔図11〕。奈良県庁写真が建築の記録写真として我々が考えるようなものに近いと感じられるのに対し,横山の写真はそこからはかなりずれがある。簡単にいってしまえば建築を風景のなかにおいてとらえる,ということになろうが,単なる名所写真よりも強い意図が投影されている。ここには古建築が作り出す外部空間を写真におさめていこうとする意図がはっきりと出ている。一方,明治20年代の写真は,この横山の写真よりも名所写真的な傾向が強く,表現内容が暖昧である。明治28年出版の『大和国宝帖』はその典型で,奈良の写真家たちの,絵はがき販売,名所写真集の刊行といった,営業写真家としての活動形態が写真自体によく表れている。工藤が撮影に参加した「法隆寺諸堂宇撮影帖」においても,個体としての建築の価値をえぐり出すような写真表現は見られない〔図4〕。こうしてみると,明治30年を境に,美術記録としての古建築写真の形式が成立してつ山口o

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