治31年12月までの日記『世路之志保里』には,写真撮影に関する記述が頻出する。明いくといえるだろう。ここには建築家による写真表現への関与が当然,想定できる。実は工藤は明治28年12月という早い時期に,法隆寺金堂をはじめとする奈良の古建築の写真を造家学会に寄贈している(注21)。この時期は,伊東忠太が法隆寺にて実測調査を行っていた時期であり,造家学会への写真寄贈は,伊東が聞に入つてのものだ、った可能性がある。工藤という人物は,鳥居龍蔵,喜田貞吉といった人文系の学者と交流を持ちつつ,自らの写真記録作業を位置づけていた人物で,伊東忠太との交流があったことも十分想像できる。また,明治30年以降の修理写真が建築写真の質を変えていくのには,修理担当技師であった関野貞の意図が関わっていることも考えられる。関野貞の明治30年9月〜明治31年1月22日の条では,「夕刻ヨリ撮影シ来リタル種板ノ顕象ヲナス余平素写真術研究ノ志アリ本日始メテ其端緒ヲ得タリ」とあり,自ら撮影を行っていることが知られる。関野自身が撮影したことを日記に記している建物は,東大寺三月堂,鐘楼,平等院鳳風堂内外,法隆寺金堂,中門,五重塔,唐招提寺,薬師寺と,枚挙に遣がない。工藤利三郎との直接の関係は不明であるものの,古建築の写真に建築家としての視線を挿入していく役割を関野が果たしていった可能性は高いだろう。以上の考察をまとめてみると,まず最初期の横山松三郎の写真は,建築家の介在がないものの,その写真表現は近世以来の名所的な認識とは一線を画した独特なものであった。しかしこれは後に継承されていかず,その後しばらくおいて20年代後半より,工藤利三郎らが古建築の写真を撮り始める。これは当時盛り上がってきた古社寺保存への動きと連動してのものであろうが,そこに写された写真は,以前の横山のものとも,明治30年以降のものとも質の異なるものであり,むしろ名所的な認識へと後戻りしている。この工藤の建築写真撮影には,20年代末以降,伊東忠太,関野貞といった建築家がからんでいったと考えられる。そして明治30年代に入り,建造物修理にともなって撮された写真により,古建築の写真表現がっくりあげられていく。この後,コロタイプ印刷による美術写真集が続々出版されるようになる。明治34年『稿本日本帝国美術略史』,明治43年『特別保護建造物及国宝帖』と,対外的な意識のもとに古建築を含む美術写真集および解説が出版されていくが,その写真表現はむしろスタティックなものとなっていくのである。明治41年より出版されていく工藤利三郎の『日本精華』もその例に漏れない。
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