注4 建築・写真・事件写真家の視線,建築家の視線は,写真自体にはっきりと表れてくる。建物を「名所」として見るのか,「宝物Jとして見るのか,あるいは「建築」として見るのか。建築学という尺度が挿入されるまでは,建築物を価値づける視線は不安定なものであった。むしろその不安定さのなかに,新鮮な視覚が見いだせるのであるが。この両者の視線を交錯させていくきっかけとなるのが,博覧会,地震,そして古建築の修理といった,建築的事件であった。明治30年代以降,こうした建築的な事件が建築写真の新たな展開をもたらす一方で,建築物個体の写真表現は固定され,スタティックなものとなっていくのである。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻所蔵古写真解題」『学問のアルケオロジー』東京大学1997年を参照されたい。ツェの建築を写した写真11枚に“Brogi’\ヴェネツイアの建築を写した写真2枚にTICA/P. POZZI/MILANO’\シエナのドゥオモ,ローマのサン・ピエトロ大聖堂の写真の2枚に“FRATELLIALINARI”の陽刻が施されている。いずれもイタリア初期写真史には欠かせない人物で,美術品,古建築の写真販売も行っていた。(4) 『建築雑誌Jにおける写真利用に言及したものに,五十嵐太郎「共同体建築のアルケオロジー第6回時間よ止まれ」『建築文化』平成9年5月号がある。(8) John Milne and W. K. Burton, plates by K. Ogawa, The Great Earthquake in Japan, 1891, Yokohama, Lane, Crawford & Co. むすびにかえて(1) 『工学博士長野宇平治作品集』建築世界社昭和3年p.77 (2)工部美術学校旧蔵イタリア建築写真については,拙稿「建築写真と明治の教育(3) イタリア建築写真のなかに,撮影者の陽刻が施されているものがある。フィレン“C. Naya Fotog. Veneziaペミラノのドゥオモの写真l枚に,“FOTOGRAFIAARTIS-(5)保岡勝也「第五囲内国勧業博覧会視察報告J『建築雑誌』第196号明治36年5月(6)三橋四郎「旅順之劇場」『建築雑誌J第210号明治37年6月(7)佐野利器「米国加州震災談(二)J『建築雑誌』第239号明治39年11月(9)東京大学工学部建築学科所蔵「東京府下震災家屋写真明治廿七年六月廿日j同『建築雑誌J第196号の法起寺三重塔写真,第200号の薬師寺東塔,第203号の唐招-684-
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