(3) カピタン・ヨアン・アウエル(JoanAouwr)が享保2年(1717)江戸参府にきた際,然として涙下る」と言っている(広瀬秀雄・中山茂・小川鼎三校注『解体新書』『洋学下』日本思想大系65,岩波書店1972年,209210頁)。吉雄はあまりの上出来に感激して,思わず涙がぼろぼろと落ちてきたと感動して書いているが,安永2年(1773)3月には,もう大体の翻訳は完成していたことになる。また通詞の吉雄が「序」を安永2年(1773)3月の日付けで書いていることは,玄白達は1773年内,あるいは1774年初期には出版の予定を立てていたのであろう。何故なら,通詞の吉雄幸左衛門が江戸に来るのは,年に一度オランダ人の江戸参府に同伴して,3月に来るのが定例であった。すると源内は秋田の阿仁鉱山へ出発した7月頃には,もう翻訳がほぼ完成していたことを知っていたことになる。さらにもう一件参考文献がある。安永2年正月付で,玄白が建部清庵(1712-1782)に送った手紙が,『和蘭医事問答Jに編集されている。建部清庵は,奥州、|一関田村侯の侍医で,オランダ医学に大変興味を持ち,色々疑問を抱いていた。その質問を書きとめていたものを自分の門人が江戸にいく際託した。門人は玄白の高名を聞き,玄白に建部からの質問を問いただしたのだが,その際玄白はその質問に対し,詳しく返答した。その返事に対し,また建部が質問を呈し,二人の間に文通が始まると同時に親交も深まっていった。この往復書簡を大槻玄沢らにより「蘭学問答j又は「蕩医問答」としてまとめられたものを,建部清庵の四男で,杉田玄白の養嗣子となった杉田伯元により『和蘭医事問答』として刊行された(杉田玄白著・松村明校注・酒井シズ注『和蘭医事問答J『洋学上』日本思想大系64,岩波書店1976年590頁)。その書簡によると,「…解体新書と申書五冊出来いたし候。いまだ校合相成不申候故,上木不申候。近々に出来可申候」と紙中で言っている。(杉田玄白著・松村明校注・酒井シズ注『和蘭医事問答』『洋学上』日本思想大系64,岩波書店1976年205頁)すなわち,安永2年の正月には,もう大体の翻訳は完成していたことになる.吉宗はヨンストンの『禽獣魚介虫譜』を楓山文庫より持ち出し色々と質問したことが,彼の日記に記録されているが,この本は1660年の出版物で,ヘンドリック・インデイク(Hendricklndijck)が寛文3年(1663),四代将軍家綱に献上すると蘭字で書いたものである。おしくもこの本は大正12年の大震災に焼失してしまった(楓山文庫には,ラテン語版もあった。岡村千曳「ドドネウスCRVYDT-BOECK -60-
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