nhu 口同d⑪ 大安寺系仏像における唐文化の受容研究者:新潟産業大学人文学部助教授片岡直樹大安寺は飛鳥時代に日本初の勅願寺院として建立された百済大寺に濫鱒を発し,以後,天武朝の高市大寺(のち大官大寺と改称),藤原京の大官大寺,平城京の大安寺と次々にその所在と寺名を変えた。その寺格は初の勅願寺院の伝統を受け継ぎ,また大官大寺とも称されたように官寺の筆頭であって,和銅3(710)年の平城選都にともなって新都に移され大安寺となってからは,南都七大寺のーとして古今未曾有の大伽藍を誇った。ところが寛仁元(1017)年の火災で伽藍の殆どを失って以降は衰退の一途をたどり,今日では近年建造の本堂など僅かな堂宇をもっ小寺院としてその法燈を伝えるにすぎない。周知のように現在大安寺には9体のー木彫成像が伝えられており,ほぼ同時期の作例と考えられている唐招提寺木彫群とともに8世紀末〜9世紀初頭の木彫像の貴重な作例として著名で、ある。しかしながら一方の唐招提寺像に関する研究が従来比較的活発に行なわれてきたのに対して,大安寺像についての研究はきわめて少なく,いささか閉塞的な状況を呈しているようにも思われる。これらの像に関してはそれぞれに制作年代や尊名比定の問題など未解明な問題が残されているわけであるが,本研究ではこのうち特に伝楊柳観音菩薩立像(以下楊柳観音像)について,これまで看過されがちであった足下の薄板に着目することにより,同像における唐文化受容のあり方を検討し,尊名の問題についても若干の考察を加えてみたい。1.楊柳観音像の像容よく知られている像であるがはじめに像の大略を記しておくことにする。本像は木心を内に込めた槍のー材から頭部より台座までを彫出した等身大のー木彫像である(像高168.5cm)。単警(後補)を結い,両眼をいからせ,開口膿怒の相を示す一面二管の菩薩形立像で,現状では右腕を屈管,左腕を垂下し,岩座上に直立する(左腕は管前から,右腕は肩の付根あたりから先を後補とする)。肩から胸にかけては強い張りがみられ,充実した下半身とともに唐招提寺木彫群にも通じる奈良朝後期の様式的特徴をよく示している。頭部には天冠台の上下に髪の毛筋を細かく刻み垂髪は木原漆の盛り上げで成形さ
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