(1)の法隆寺金堂壁画比E像のものとほぼ同様であるが,足甲上の結び目をより足首に(4) 興福寺阿修羅・十大弟子像19 (679)年〕出土の緑紬埠四天王像や,石窟庵〔天宝10(751)年〕の浮彫比正像の3.楊柳観音像の踏板についてあらわす。両足には板金剛をはき,それぞ、れl体ずつ邪鬼を踏みつけている。形状は近い所で結ぶ(緒を足首によりきっく巻き付ける)点が若干異なる。なお,台板の土踏まず下の側面には同様に矩形の割り込みをあらわす。いずれも天平6(734)年建立の西金堂旧安置像である。八部衆像では阿修羅像のみ,十大弟子像では舎利弗・日韓連・須菩提・富楼那・迦施延の各像が木製の板金剛をはいている(ただし舎利弗と富楼那のものは後補)。形状はすべて同形で,楕円状の薄板に鼻緒を取り付け,足首に巻いて固定する通形のもので,台板側面にはやはり円弧状の割り込みを入れる。鼻緒は乾漆盛り上げで成形され,前緒は第1足指と第2足指の聞を通す。ただし前緒を2条とする点が(1)〜(3)の例とは異なる。以上では古代日本の美術作品における板金剛の作例を取り上げたが,これに近似する履物(サンダル)の例は,古くは紀元前l世紀のサーンチー塔門の人物像にみられ,紀元後2〜3世紀のガンダーラ彫刻にも頻繁にみることができる。中国では初期石窟寺院の天部像等のほか,唐長安(701〜715)年間修築の慈恩寺大雁塔線刻画中の天王像にも同種の板金剛をはく例がある。また朝鮮の作例としては慶州四天王寺〔文武王うちの数体に板金剛がみられる。一方,日本の現存作例には飛鳥時代のものはなく,上記のように白鳳期以降のものに限られることから,仏教図像にみられるこうした板金剛は,中国初唐の作例を学ぶことにより7世紀末に,遣唐使の中断等の事情を考慮すれば,おそらくは朝鮮半島経由で日本へもたらされたものと考えられる。先にも記したように,楊柳観音像については従来の研究者によって菩薩形でありながら開口韻怒の相を示すといった造形上の特異性が指摘されている。さらに一方では,同像の左右足下にはそれぞれ楕円形の踏板状のものがっくり出されており,このような点も同像の一つの際立った特徴といえる。以下では前章の知見をふまえて,この踏板状のものが何を示しているのかを検討してみることにしたい。まず,従来の研究者がこの部分をどのようにみているかであるが,近年の解説類の-694-
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