鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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これらの像が安置されていた興福寺西金堂の造営には僧道慈が関与したことが指摘されているが(注6),周知のように道慈は大宝元(701)年に遣唐使に従って入唐,養道慈を介して結びつくのではないかといった憶測も許されるように思う。もっとも様式・技法から導き出される楊柳観音像の制作年代と興福寺像のそれとは半世紀ほどの隔たりがあるが,前者の年代は道慈に学んだ大安寺僧慶俊(注7),ないしはこれに師事した戒明(注8)の活躍期にあたることから,大安寺では8世紀初頭に道慈によってもたらされた新来の図像が後世に受け継がれ,楊柳観音像に反映されたとの想定も可能ではなかろうか。さて,最後に楊柳観音像の尊名の問題に少しくふれておくことにしたい。大安寺木彫群に関してはこれを奈良朝末期における初期雑密系尊像とする見方が広く行なわれているが,楊柳観音像についても密教尊像中に尊名を求めるのが最も妥当で、,その際には一部の経軌に説かれる一面二管の不空霜索観音像などの可能性がまず考慮されなければならないだろう。しかしそうした場合,本像の開口し板金剛をはくという特殊な像容がうまく説明できるものかどうか。特に日本においては板金剛をはく菩薩像の遺例は少なくとも現存せず,これを通常の不空霜索像とするのには若干の障措を覚えざるをえない。一方,日本における板金剛をはく尊像は,先にみたように天部像と僧形像(ないしは阿修羅像のような仏弟子的性格をもつもの)に限られているが,この両者に共通するのは,平地のみでなく山岳など険峻の地をも歩行すべき性格をもっ尊像ということである。言い換えれば,板金剛をはく尊像はある種の修行者(僧)としての性格を帯びたものということができょう。つまり楊柳観音像の場合,不空霜索像のような菩薩像の性格を有すると同時に,一方では修行者(僧)としての側面を強く併せもった尊名が相応しいといえるのではなかろうか。そこで想起されるのが,やや唐突めくが宝誌和尚像(誌公像)との関係である。大安寺木彫像と宝誌伝説の関連性については既に先学による指摘もあるが(注9),『延暦僧録』の釈戒明伝によれば,大安寺僧戒明は宝亀10(779)年以前に入唐して宝誌の宅を礼拝し,兼て誌公の十一面観音の真身を請い得て日本に還り,この像を大安寺の南塔院中堂に安置したという。また『梁高僧伝J『仏祖統記』などの文献には,かつて梁の武帝が画家に命じて宝誌和尚の像を写させようとしたところ,和尚は自ら指をもって顔の皮を裂き破り,十二面観音と化したという有名な奇蹟語を載せるが,戒明が老2(718)年に帰朝し,平城京大安寺造営に携わったことで知られる。つまり両者が-696

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