鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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注(1) 田辺三郎助「楊柳観音菩薩立像J(『大和古寺大観』3岩波書店昭和52年)(2)近藤四郎「サンダルJ(『世界大百科事典』11平凡社昭和63年),近藤四郎・潮(4)西川新次「木彫の成立」(『大和の古寺.I4 岩波書店昭和57年)(5) 執筆者不詳「楊柳観音立像」『特別陳列・大安寺の美術』奈良国立博物館昭和(6)森下和貴子「藤原寺考律師道慈をめぐって」(『美術史研究.I25 昭和62年)(7) 『延暦僧録』『七大寺年表』『元亨釈書』『本朝高僧伝』等による。(8) 『延暦僧録』釈戒明伝。(9) 浅井和春「岡山・安住院所蔵の伝聖観音菩薩立像に関する一考察ーいわゆる錠彫(3) (注1)田辺氏前掲解説。持ち帰った像はおそらくはこうした奇怪な像であったと思われる(注10)。一方,『宇治拾遺物語』『別尊雑記』等には,宝誌和尚に関するまた別の説話が載る。すなわち宝誌の像を写しに3人の絵師が赴いたが,和尚は術をもってl人の絵師に対するごとに不空霜索観音,十一面観音,千手観音とつぎつぎにその姿を変えたため,絵師は同じ宝誌の姿を写しながら3者3様の図をなしたというものである。右の内容の説話は中国の文献にはみられないようであるが,当時の日本ではよく知られたものであったらしい。つまり奈良朝末期の大安寺においては,戒明が唐土より将来した宝誌像に触発されるかたちで上記のような菩薩像が制作された可能性は充分にあり,そのうちの1体を楊柳観音とみるのも,あながち妄想、とばかりはいえないように思われる。またこうした想定が認められるならば,板金剛をはく菩薩形という本像の特殊な像容に,ある程度合理的な解釈ができるのではなかろうか。以上,楊柳観音像の板金剛の問題に端を発して推論を重ねてきたが,大安寺木彫像についてはこれ以外の作品との関係など多くの問題が残っている。さらに中国や西域の作例にみられる板金剛については今回詳しくふれることができなかったが,こうした点も含めて今後の課題としたい。国鉄雄「履物」(『世界大百科事典』22)60年,井上一稔「伝楊柳観音菩薩立像」(『日本美術全集4東大寺と平城京』集英社平成2年),今野加奈子「大安寺楊柳観音・十一面観音小考」(兵庫県立歴史博物館研究ノート『わたりやぐら』39平成10年)-697-

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