鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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(4)小川鼎三『医学の歴史』中公新書39中央公論杜,37版1992, 106 108頁。そ年2月21日,433頁)。同じくその時に献上されたと思われるドドネウス(Rember-tus Dodonaeus)の『草木譜Jは,1644年に出版されたものであった。野目元丈は毎の邦訳について(3)」『医学のあゆみj第28巻第8号医歯薬出版株式会社昭和34年江戸参府に同伴してくる医師に面会して,まずヨンストンの訳を試みたが,本草学に無関係で、あることを知った彼は,寛保元年(1741)『阿蘭陀禽獣虫魚、図譜和解』としてl冊にまとめた。ドドネウスの本は,本草書であることが分かつた元丈は,翻訳に取組はじめた。寛延2年(1749)をのぞく,寛保2年(1742)から寛延3年(1750)の聞に,毎年l冊をだし,合計8冊を『阿蘭陀本草和解』としてまとめ,『阿蘭陀禽獣虫魚図譜和解Jをも含めて,9冊を2巻とした。しかし年号順に編成されていない。元丈は毎年10から20種類程の草木をドドネウスから選出して,大通調に翻訳を依頼した。いずれもオランダ名,日本名,ラテン名,i莫名を上げ,効能,主治,製薬法等を記している。そして最後の頁には,野目元丈和解と記し,オランダ医師及び通詞の名を記している。(岡村千曳「ドドネウスCRVYDT-BOECKの邦訳について(3)」『医学のあゆみ』第28巻第8号医歯薬出版株式会社昭和34年2月21日,431-435頁)。しかしこれらの本は一般に公開する目的のものではなく,将軍吉宗への報告的な性格を持ったものであったので,一般にはほとんど影響をあたえなかった。青木文蔵はオランダ語を研究し,『和蘭和訳J,『和蘭文訳Jなど簡単な辞書を編成したが,やはり彼の業も一般には影響を与えなかった。杉田玄白が『解体新書』の凡例に書いているように,中国の古医書を「徒らに糟粕を信じて無稽の言を無し,数千年来,寛に真面白を識らず,あに哀しからずや」と嘆き,一般市民が自発的に蘭学に挑戦する迄には,将軍奨励以来約三十年もかかった。の時解剖された38才の男の霊を祭り,この解剖によって東洋達の夢が覚めたので「夢覚信士」と戒名が与えられた。当時刑死体は,葬儀も墓石も立てられなく,野外に放置されるのが普通であった。しかしこの解剖以来,日本の各医科大学で,解剖体祭が行われる習慣が始まった( 5) 若狭の小浜藩は名門酒井雅楽助の系統で,初代忠勝は,大老として家光,家綱を補佐して活躍した実力家である。また十代忠貫,十一代忠進のころは,学問が大いに興隆し,蘭学も藩を上げて保護されていた時である。だから杉田玄白が,『解-61-

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