鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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ある者は被衣をかざし,またある者は袖で口元を隠すなどして,皆一様に左の方向を向いている。その視娘の先には何か関心事があるような素振りで描かれている。しかし,そこには娃掛けの固いがあるだけである。次に,画面の左端に描かれた歌舞伎舞台を眺める二人の男(図2-B)の姿に着目する。細見美術館蔵のく北野社頭遊楽図〉の第三扇に,先のA・Bの組み合わせに数人の男女を加えた,男女の出会いの場面〔図3〕が描かれている。若い男女の出会いの場面は,近世初期風俗画の主要モチーフとしてしばしば風俗画中に描き込まれていることがすでに指摘されており(注1) ' <北野社頭歌舞伎図〉に描かれていた女性の視線の先には本来Bのような若い男性の姿が描かれていたとするのが適当であろう。〈北野社頭遊楽図〉には「椋?政」の印が捺されており,本来六曲一双をなしていたと考えられる同じ印を捺したく祇園社・四条河原図〉(個人蔵)がある。〈祇園社・四条河原図〉は,く北野社頭遊楽図〉と同様に金雲で画面を斜めに区切り,右上に祇園杜,左下に四条河原の歌舞伎小屋を配した作品である。歌舞伎小屋の脇に描かれた相撲小屋では,一人が足を取りもう一人が相手の髪をつかむ特徴的な描写で相撲の場面〔図4〕が描かれているが,同じ姿型が吉川家旧蔵〈浩中洛外図〉(福岡市立博物館蔵)の五条橋東詰めでの相撲小屋〔図5〕や,原本を狩野孝信筆とするく豊田祭礼図模本〉(妙法院蔵)中にも使用されている。〈北野社頭歌舞伎図〉は慶長期狩野派の様式を受け継いだ作品で,吉川家旧蔵〈洛中洛外国〉も,筆者を狩野孝信とする説があるように,これらは慶長末から元和(1615〜24)前期に正系の狩野派の画家によって描かれたことが作画様式から推測される作品である。〈北野社頭遊楽園〉・〈祇園社・四条河原因〉は,頬骨の出た顔の描写や,樹木の描写などに桃山時代から江戸時代初期にかけて変容していった(慶長期より後の)狩野派の特徴が認められ,共通図様が利用されていることとあわせてく北野社頭歌舞伎図〉や吉川家旧蔵〈洛中洛外図〉の画家の流れを汲んだ狩野派絵師の作品であることが指摘できる。作品の様式展開から推測された作品の理論上の制作順序「〈北野社頭歌舞伎図〉からく北野社頭遊楽園〉へ」では,〈北野社頭歌舞伎図〉の男女の出会いモチーフが二つに分割されていることの説明は出来ない,この場面では出会い場面の意味を失って型だけが転用されたものだからである狩野派正系による。〈北野社頭遊楽園〉に見られるような男女の出会い場面をもった作品が先行してあり,そこから派生的にこれらの作品が生み出されたと考えるのが妥当であろう(注2)。それを示すように古川家700

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