旧蔵〈洛中洛外図〉は,部分モチーフ間での有機的繋がりが薄く,先行モチーフを特定の場面や動きの型として転用して画面の中に配していったという感じが強い。先行する図様を転用した具体例として,子供に対し棒を振り上げる片肌脱いだ男の姿〔図6〕が指摘出来る。この姿は桃山時代狩野派の中心画家の一人である狩野宗秀が文禄3年(1594)に描いたく遊行上人縁起絵巻〉(山形・光明寺蔵)第8巻の第4段で杭をnっている男の姿〔図7〕と着衣の表現まで一致している。吉川家旧蔵〈洛中洛外図〉での姿は,特定の動きをもった姿型として意味を変えて転用されているのである。先のく北野社頭歌舞伎図〉に描かれた四人の女性(A)が,左を向いている意味を失って,ただ歩く女性群像として利用されていたように,これらの風俗画制作を行った狩野派では,動きをもった人の姿が粉本として蓄えられ,それによって作画が進められていたと推測される。金雲を利用して興業の小屋や名所を組み合わせ京名所図として画面をまとめる画面構成法などにも,現実の風俗を自身で描き出す個人画家ではなく,先行図様を粉本として利用して作画を行うシステムの確立した工房的画家集団の姿が浮かび、上がってくる。洛中浩外図などの名所図制作に通じた狩野派正系の画家が祖型を作り,それを展開させていった工房が,次第に町絵師化していく段階での過渡的状況をこれらの作品は反映している。同じような手法で京名所を描いた作品として,他に滴翠美術館所蔵など2点のく京名所図〉が知られている(注3)。II 同一モチーフの表現と流派性の関係に対する考察(徳川美術館蔵〈豊田祭礼図〉の相撲・喧嘩・訊取りを例として)前章で,やや詳しく共通図様の検討を行ったが,それらの作品は,作風からいずれも狩野派系統の画家の手になったものと判断された。では,同じ場面を系統を異にする画家が描いた場合,型や作風に流派的特徴が認められるであろうか。落款印章などは無いものの,岩佐又兵衛その人の関与が推測され,又兵衛風風俗画の典型的画風を示す作品と考えられている徳川美術館蔵のく豊園祭礼図〉を中心として,以下に3つの場面モチーフを選んで、検討を行ってみる。1 相撲前章の狩野派系統の措抗した取り組みの様子に対して,徳川本〈豊園祭礼図〉左隻が決まる場面で描かれている。また,〈豊田祭礼図〉と作風的に密接なつながりのある第5扇上に描かれた相撲場面〔図8〕は,相手を担いで背中の方に投げ降ろした大技701
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