30〕のように舟木家本〈洛中洛外図〉の中の姿型〔図31〕が又兵衛風とは異なった作あり〔図29〕,極彩色の絵巻であることからも岩佐又兵衛との関連が推測されている。また,作風の上では樹木や人物の描写,人物の内面性を暴露的に描いた場面などに又兵衛風が認められる一方,金雲の処理の仕方や,絵の具の質,主要人物の描写に又兵衛風作品とは異なる要素が多く感じられる。異なる系統の図様と様式が混在した作品と見なすべきであろう。これは,共通図様による流派整理の限界というよりも,作風と併せて考えることの重要性を示す例であり,それによって,又兵衛風作品が図様・作風の両面で他の流派の風俗画にも影響を及ぼしていたことを確認することが出来ると考える。風俗表現において,又兵衛風図様は流派を越えて広範に受容されていた。その具体例として,又兵衛風諸作品に共通して頻出するII-2の喧嘩図様が,かつて麻布美術工芸館に寄託されていたく洛中洛外図〉などの又兵衛風とは異なる町絵師の手になる作品に認められることや,〈厳島遊楽図〉(東京国立博物館保管)の後妻打ちの場面〔図風の風俗画にしばしば利用されていることを指摘することが出来る。まとめと展望又兵衛風風俗画の特徴は,又兵衛以前の狩野派の風俗画にも描かれていた男女の出会いや,喧嘩の場面といった当世風俗の表現に適したモチーフを,「初期肉筆浮世絵jの描かれた時代意識を反映した誇張された図様に変奏し典型化して利用したことにある。いわば当世を表現する慣用句を流行語として創出しなおして提示したことであった。17世紀の画壇では,図様や主題が,画家や流派それぞれの特徴を示すものとして,流派意識の中で捉えられようとしていた。身分制度の確立が絵師の家格を規定していく時代にあって,狩野派などの既成流派に属さない当世風俗等を専らとした町絵師たちが,自身の流派的拠り所として,又兵衛風図様を利用し,岩佐又兵衛の画系に連なることを自不才、していったのではないだろうか。又兵衛を浮世絵の始祖とする考えは,このような時代風潮の中で,町絵師の側から生まれていったと考えることが出来るだろう。だからこそ,近松門左衛門の浄瑠璃〈傾城反魂香〉に岩佐又兵衛をモデルとしたとされる吃の又平が登場する前提として,早くから一般の人の間で又兵衛伝説が語られ受容されていたと考えられる。-704-
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