鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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(8) 玄白は『蘭学事始』中,「…そもそも江戸にてこの学を創業して,蹄分といひ古り(9) 前野良沢は豊前中津藩の医者で,1770年に長崎へいっている。良沢は,丁度その(10)広瀬秀雄・中山茂・小川鼎三『洋学下』日本思想、大系65,岩波書店1972, 502 LENTであった。当時の解剖書を簡素化した業績をたかく評価されている。また当(7) 同書109頁。体新書』を刊行するにあたっても,かなりの保護を藩から期待出来たであろうと想像する。(6)小川鼎三『医学の歴史J中公新書39中央公論杜,37版1992, 108-109頁しことを新たに解体と訳名し,且つ社中にて誰いふともなく蘭学といへる新名を首唱し,わが東方闇州,自然と通称となるにも至れり」と回想しているが,“肺分”と言う古い表現を“解体”という新名に改めたのは玄白で,“蘭学”という新語が玄白達の間で,誰ということなく,通称されるようになったのもこのころであることが分かる。杉田玄白『蘭学事始』4243頁。夜「蘭人滞留」の時期で、本石町の長崎屋に行っていたらしく,玄白は本石町の木戸際にいた「辻駕の者」に頼み,手紙を渡してもらい連絡をとったことを回想しているが,前野良沢は本石町では常連で,良く知られていたらしい。何となく微笑ましくなる当時の生活状況である。503頁。ジョン・アダム・クルムス(1689-1745)はプレスラウ(いまのポーランド領のWroclaw)で生まれて1711年から数年間諸大学で医学と博物学を学んだ。ドクトルの学位を1719年パーゼルで得た。オランダに滞在したあと,ダンチッヒに行き,医業を聞いた。1725年その土地で,医学と博物学を教えた。学問的に活躍したのは1720年代で,多方面にわたって研究業績を残し,かなり認められていたようだ。1722年にレオポルドアカデミーの会員になり,1725年以降はベルリン学士院の会員となった。しかし,彼を有名にしたのは,ANATOMISCHETABEL-時ラテン語でなく,彼はドイツ語で書いた。(叫その由来は,この本のとびら絵の下部にあるカツーシュ内部に書かれているラテン語をタイトルとして使用したようである。そこには「TabulaeAnatomicae J (ターヘル・アナトミカ)と複数形で書かれている。タイトル頁であることが,はっきりしている頁からは取らないで,作者ジョンアダムクルムスがクルムスと省略されているとぴら絵頁からタイトルをとっているのは解せない。62

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