鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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円台U円i理論家で,本多錦吉郎はあるだろう。小稿はむしろ僕自身の啓蒙のためにある。とはいえ,既に先学によって秀れた論究の成果もある。通常は注の形式で一括すべきかもしれないが,本稿はこれらの方々の膜尾に付して学びはじめようとする者の組い「研究報告」であるから,規範とすべく,本文に以下示したい。0尾崎尚文「園津新九郎・本多錦吉郎手択の洋画技法書」(『参考書誌研究第』15号1977年10月,国立国会図書館参考書誌部)。0三輪英夫「園津新九郎の画歴と作品J(『美術研究第』321号1982年9月,東京国立文化財研究所)。0金子一夫「画塾彰技堂における西洋画教育」(『近代日本美術教育の研究明治時代』1992年2月,中央公論美術出版)。そして,O青木茂『明治洋画史科懐想篇』(1985年,中央公論美術出版)『明治洋画史料記録篇J(1986年,中央公論美術出版),『油絵初学j(1987年,筑摩書房)。他分野の日本の近代史研究に比べて美術の分野はもっとも遅れているとの指摘があって10年余,近年の,明治美術学会をはじめとする旺盛な近代日本美術史研究活動は,この分野が内包する豊かさを次第に明らかにしてきたといえよう。本多錦吉郎の美術活動も,広くはいわば時代的要請のなかで,欠落感をばねに篤実に研鐘に励んだものであったともいえよう。II 本多錦吉郎の年譜を整理しておく。本多の文献としてはまず第一に,村井鏡次郎編『洋画先覚本多錦吉郎J(昭和9年9月,本多錦吉郎健碑会)が挙げられるが,今回この本を手元に置いて参照・校合することはできなかったことをおことわりする。その他の不備も相当あるはずの,全くの粗稿である(注2)。1850 (嘉永3)12月2日安芸藩士の息として江戸・青山隠田の藩邸に生まれる。8歳の時,祖父・父があいついで、没。元服15歳ということにして家名を保つ。

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