鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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1863 (文久3)江戸詰藩士全員に帰藩命令があり広島に。広島で漢学(漢籍の師は頼氏),英学を学び,撃剣の道場に通う。英学については,藩が三原に洋学所を聞き,そこに英国人ブラックモール兄弟をf庸った(慶応2年)。ブラックモールは広島・水主町,海軍操練所に招かれ英学と英国式軍事訓練を教えた(明治l年10月明治2年12月)。本多は藩によって選抜されてこのブラックモールに就く。英書の挿絵に興味を持ち,絵心を師にほめられた。また藩医の息,野村(村田)丈夫は英国から慶応4年帰国,6月24日藩の洋学教授職となる。野村の塾でも英学を学ぶ。1868 (明治1) 修道館で漢学を学ぶ。1869 (明治2)ブラックモールについて「英語学及英式練兵jを学ぶ。また野村(村田)丈夫から「英学及数学jを学ぶ。1870 (明治3)春,藩の洋学助教授を命ぜられる(1年間)。1871 (明治4)廃藩置県となり,上京。慶応義塾に入塾。1872 (明治5)官費の工部省測量司伝習生となり,英国人イ一トンとジョンスに英語学と数学(あるいは測量術)を学ぶ(野村は明治3年10月13日広島発,24日東京着,民部省出仕庶務大佑次席,4年2月25日庶務権正,8月18日工部省七等出仕,12月工学権助となっており,野村の勧めがあったと思われる)。ジョンスは本多に洋画家になることを勧めたという。1873 (明治6)春,脚気のため,一時帰広。1874 (明治7)再上京。野村の英学塾(神田か)の寄宿生となる。川端玉章の画塾に入るがあきたらず,この年の末に英国から帰国した土佐の人,園j畢新九郎が聞いた麹町平河町の彰技堂(分校的教場を京橋区西紺屋町に設ける)に通う。714-

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