ふそう1875 (明治8)10月6日西紺屋町から移った銀座の竹川町の教場で日本最初の洋画展覧会開催。この頃,本多は既に塾頭であり,幹事として竹川町分校に寄宿。1876 (明治9)11月結婚(芳子夫人)。秋,竹川町分校も麹町平河町に移り,本多も平河町に住む。1877 (明治10)3月12日園津病没。彰技堂での授業を代講していた本多は5月初め,神田今)||小年6月駅逓寮勤務となっていた野村丈夫は,この年1月15日官員を依願退職,2月25日団々社創立,3月24日に訊刺週刊誌「団々珍聞」創刊号を刊行している。全16ページに表紙画を含め9点の「綿密な西洋風の絵J<団々珍聞創刊広告,3月24日読売新聞〉がある)。本多はこの年から4'5年間,週刊である「団々珍聞」の挿絵担当者,図画主任として健筆をふるう。1878 (明治11)10月戯作週刊誌「膜尾団子」創刊(明治16年5月=235号まで,団々社)。1879 (明治12)1月日本最初の洋画専門講義録である『洋画手引草』編集出版。3月牛込新小川町に塾舎を新築する。5月『梯氏画学教授法』(文部省)刊。6月以降「彰技堂jを継承,再興する意志を固め,8月東京府に「私学開業願」を提出,認可される。10月9日「膜尾団子j創刊一周年祝宴(於・開化楼)に出席(総生寛,石井南橋,梅亭金鷲,岩崎好正ら)。1880 (明治13)7月31日づけ「団々珍聞J171号の本多の“狂画”によって筆禍事件が起こり,11月編集長・岩崎好正が禁獄I年の刑を受ける。本多は3度法廷に立ったが無罪放免される。しかし,この事件を機に「芸術家にして政治を訊し,万一法律に触るるやうな事が出来しては技術家養成の責任上相済まぬと云う心から,普通滑稽的調刺画には筆を執られたが,政治問題,法律問題等には断乎として辞退さるるに至った」(『洋画先覚本多錦吉郎j)という。やがて本多は“狂画”を描かなくなり,団々珍聞には明治20年頃から小林清親の登場となる。路1丁目3番地に「画学講習所jとして移転(明治8年4月22日内務省五等出仕,9
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