鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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ウi皿5月26日没。72歳。1911 (明治44)12月『日本名園図譜j(小柴英刊)0 1921 (大正10)1933 (昭和8)5月25日門下の下村為山,丸山晩霞,村居鉄城らによって東京・芝の泉岳寺に「本多翁煩徳碑」が建てられる。提出した図版を紹介しておこう。〈肖像〉〔図l〕画布に油彩。二人の男性半身肖像を組みあわせたもので,このような形式は珍しい。二人とも和服,剃髪。眼光はするどい。年長者を向って右に高く,少壮者を左に低く構図をとっている。親子,あるいはなんらかの職の先代とその継承者であろう。右の人物は左手に(薬)草を持つところから医師であろう。左の人物は右手に杖状の柄,ないし棒状のものを持つ。土色の壁を背景に画面左上部には茶色のカーテンが見える。明治初期写真師の撮影場所,写場のような舞台設定である。別の言いかたをすれば写真館で撮影した,あらたまった儀礼的記念写真の様相ともいえる。右端,底部などに,部分的下地に使用したかあるいは混色したかと思われるグリーンの色味が感じられる。校刊された『油画道志留辺』(青木茂『明治洋画史科記録篇J119-120頁参照)の「緑色酸化〔GreenOxide Chromium〕jの説明,「其色頗椴密ニシテ勢力アルカ故ニ注意シテ用イザレパ欝滞セル色ヲ生スJという文などが憶われる。良い意味で「欝滞jした感情を催せる色味である。人物の眼の輝きには特に意識的で「玉眼」にも似た効果をあげている。頭部,耳,手などはやや生硬の感を免れない。特に手はのちの悪修復かと思わせるほどに稚拙だが,これはのちの〈羽衣天女〉の足先の表現にも通ずる,本多錦吉郎の円熟していない描きぐせというべきであろう。誰の肖像か,いまだ不明である。野村丈夫の父は野村正碩,家学の眼科専門医で藩医であった。弘化3年没。正碩の先代は正友,本姓は土生で,兄は土生玄碩,幕府医官である。

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