鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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展(1993年9-12月,兵庫県立近代美術館,神奈川県立近代美術館)などに出品・展野村丈夫の兄は野村正精,その墓誌に,天保12年長崎に赴き医を修む,時に泰西砲術の行はるるを見て本藩に建議してこれを採用せしめたり,慶応3年没す,という。このあたりをもっと調べたいと考えている。この〈肖像〉は生硬さは残るとしても三人の個性,特徴をよく観察,表現しており西洋画の写実技法ならではの作品となっている。本多錦吉郎はこのとき,満27歳。洋画先覚青年として初々しく,また熱意ある画面である。〈肖像〉に関連して,本多の訳述による明治14年の『人像画法』のラストの部分を引用しておく。「画を学ぶ者はたとえ美麗精巧なりとも他人の手になれるもの(即ち粉本の類)を模写する事を得るを以て心に安んずべからず。若し如此ナレば書を学び文を学び常に只其例文乾範等を用いて満足するものと伯仲すべし」。〈羽衣天女〉〔図2〕『洋画先覚本多錦吉郎』に写真が載っている。同書の説明にこうある。「く〉羽衣天女油重は錦吉郎先生明治二十三年の力作にして同年の内園勧業博覧会に於て褒状を得られたる先生の代表画たり,明治,大正,昭和に亘り世人が油絵を談ずるや先以て本多氏の羽衣天女を語る,而も董は三十年の昔某氏の仲介に依って遠く米国に搬出せられ,今尚シカゴ公使館の一室に掲げありと聞く」。それが近年ニューヨークで見つかり日本人画廊主が購入して里帰りした(注3)「日本美術の19世紀j展(1990年9月1-30日,兵庫県立近代美術館),「描かれた歴史J示されて以降,よく紹介されている。明治23年の第3囲内国勧業博覧会の会場で同時に出品された原田直次郎〈騎龍観音〉とともにこの絵が目立ったことは外山正ーの「日本絵画の未来J(注4)を読むとわかる。「海面に苦然たる天人」と外山はこの絵を形容している。〈騎龍観音〉のおどろおどろしさに比べれば〈羽衣天女〉はいわば華美で,明快なぶんは良い。が,下部の富士山は説明的で弱い。また天女の足先も概念的で、ある。三輪英夫氏が指摘する輪郭線(注5)の問題もある。要するにこの本多の代表作のテーマは西欧の天使図像と日本の伝説のなかの天女イメージの混交,融合絵画なのである。当時の日本人を驚かしおそらく西欧人にも珍妙さを感じさせて,とまどわせたであろう。この絵が,新興のアメ718-

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