(12) 玄白は『蘭学事始』につぎのように書いている。「明和八年辛卯の春かと覚えたり,(14) 良沢が長崎から持って帰ってきた小冊に,訳注としてフルヘッヘンドは,「木の枝(15) 「凡そ一年余りも過ごしぬれば,訳語も漸く増し,読むに随ひ自然とかの国の事態(16) 熊谷儀克もやはり西洋の解剖学からトレースをしている。脊髄骨は「解体新書」(18) この本は,後藤梨春が江戸参府で江戸へきたオランダ人を長崎屋に訪ね,聞いた(1カ杉田玄白『蘭学事始』20頁と53頁。かの客屋へ至りてターヘル・アナトミアとカスパリュス・アナトミアといふ身体内景図説の書二本を取り出し来り,望む人あらば譲るべしといふ者ありとて持ち帰り,翁に見せたり。もとより一宇も読むことはならざれども,臓蹄,骨節,これまで見聞するところとは大いに異にして,これ必ず実験して図説したるものと知り,何となく甚だ懇望に思へり。…これを求むるに力及びがたかりしにより,わが藩の太夫岡新左衛門といへる人の許に持ち行き,しかじかの次第なればこの蘭書求めたしと告げたり。…それは求め置きて用立つものか,用立つものならば価は上より下し置かるるやう取計ふべしといへり。その時,翁,それは必ずかうといふ目当とではなけれども,是非ともに用立つものになし,御目にかくべしと答へり。傍に倉小左衛門(後に青野と改む)といふ男居たりしが,それはなにとぞ調へ遣はさるべし,杉田氏はこれを空しくする人にはあらずと助言したり」。杉田玄白『蘭学事始』29-31頁。住訪問書36頁0を断ち去れば,その跡フルヘッヘンドをなし,また庭を掃除すれば,その塵土緊まりフルヘツヘンドすといふやうに読み出だせり。…また例の知くこじつけ考へ合ふに,弁へかねたり。時に,翁思ふに,木の枝を断りたる跡癒ゆれば堆くなり,また掃除して塵土緊まればこれも堆くなるなり。鼻は面中に在りて堆起せるものなれば,フルヘッヘンドは堆といふことなるべしJ,同書39 40頁。も了解する様にて,のちのちはその章句の疎きところは,一日に十行も,その余も,格別の労苦なく解し得る」。同書41頁。と同サイズであるが,全身人骨は,パートリニの全身をトレースしたものを,横に引き伸ばしサイズを拡大した感がある。ことを書き集めた本で,民衆の西洋にたいする好奇心が高まった中で,一番最初に刊行された書物である。当時海外の知識を得るためにはJ華夷通商考』(1695)-63-
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