頁と『増補華夷通商考J(1709)が,必読書とされていたが,後藤梨春もこれらの本に負うところが大きいとされている。後藤梨春著・菊池俊彦解説『紅毛談/蘭説弁惑』江戸科学古典叢書17,1979, 60頁。同広瀬秀雄・中山茂・小川鼎三『洋学下』日本思想大系65,岩波書店1972, 216 倒この本は,解剖学者ピドローが画家ライレッセ(GerardLairesse)と協力して世にだした,その当時としては芸術的にも最も優れた解剖書だと言われている本である。ヴエサリウス(AndreasVesalius)が1543年に『ファブリカ』(DeHumani Cor-poris fabrica liberi septem)を出版した際も,テイツイアーノの弟子達が挿図を担当しているが,良く名前のしれた画家が解剖学者と肩を並べて解剖学書に名を連ねるのはこれが初めてであった。だがこの本はいろいろと問題のあった本である。なぜなら本は,芸術性には富んで、いたが,高度の精密描写に欠け,解剖学書としては不適当で、あった。サイズが大きく高価なことも問題であったが,学生の間では不人気で,当時あまり売れなかった。そこで,アムステルダムの出版社は三百余りの原版をオックスフォードの出版会社に売った。イギリスでピドローと同等の人気があった解剖学者カウパー(WilliamCowper)は,そのピドローのAnatomia…の図版をそのまま使用して,自分の著書Anatomyof Human Bodies with Figures と題し,ロンドンで'1698年に出版した。カウパーは,ピドローの版に新情報を加え,新挿図9枚を加えて出版したとはいえ,ピドローとカウパーの聞に紛争が続いた。(詳しくは菅野陽「画家ヘラルト・ドウ・ライレッセと解剖学者ピドローとカウパー」『日本洋学史の研究VIIII』創元社1987を参照)カウパーはピドローの図版に赤色で注意書きを付け加えたため,原図を見ると,どちらの著者のものか判別できるが,玄白の『解体新書』には印もなく,玄白がどちらの本を使ったかは解からない。しかし,桂川甫賢(桂川甫周の孫)によるとピドローではなくカウパーの解剖書が当時日本に入ってきたことを記しているので多分玄白もカウパーの本を使用したのであろう(菅野陽「画家ヘラルト・ドウ・ライレッセと解剖学者ピドローとカウパーj,『日本洋学史の研究VIIIJ 1987, 74頁)。凶LudwigChoulant, History and Bibliography of Anatomic Illustration. Trans. by Mor-timer Frank. New York: Hafner Publishing Company. 1962. pp. 34, 248 伺パートリニは1641年,1660年,1668年,と1669年版がありそれぞれを調査するこ64
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