鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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② 日韓芸術共同研究場(Japan-Korea Cooperative Research and Symnposium about Asian and Aesthetic) 期間:1998年7月31日〜8月2日所:広島県立美術館及びふくやま美術館ほか報告者:広島大学総合科学部助教授青木孝夫さる平成10年7月31日から8月2日にかけて,主として二つの県立美術館で開催された日韓・広島共同塞術研究集会について,申請書で述べた趣旨に沿って報告を行う。その際,所謂学問的な寄与のみならず,討議を通じ粛された状況認識や研究姿勢の自覚に関する相互啓発も,大切な貢献として記述することにしたい。この国際会議の趣旨を次のように述べた。「学問の条件として政治・経済・文化的コンテキストは4衣然として西欧中心的である。日本と韓国を中心とする研究者や院生・学生並びに芸術家らが,広く市民に聞かれた共同の場で,アジア並びに東洋の芸術と美意識…の独自の歴史と意義に関し,研究発表とシンポジウムを開催するjと。アジアの塞術を,西洋の視点ばかりでなく,帰属している東アジアの社会や伝統に梓さしつつ,しかもグローパルな立場から研究しようとした。その結果,アジアという地域概念が単純に問題となるのではなく,妻術文化が政治や経済から切り離されるものではなく,歴史のコンテキストに深く根ざしていることが更めて浮き彫りになった。そうした面を中心に,今回の国際会議の意義を述べていくこととする。久保田氏の,韓国最初の女性西洋画家羅恵錫(1896〜1946)に関する研究発表があった。彼女の画家としてまた妻,母として苦闘の背景には,次のような状況が控えていた。即ち,日本は明治維新以来,欧米をモデルにして制度作りをし,近代化を果たしてきた。塞術制度もまた例外ではない。一方,文明開化は富国強兵のモットーにも窺えるように軍事の時代でもあり,欧米列強に倣った日本は帝国主義的な拡大主義をとった。日本は日清・日露の両戦争を経て台湾と朝鮮という近隣の諸地域を支配した。被植民地には,植民者日本を通して「近代」が移植された。そこでの教育は,受ける者にとっては逆説・矛盾に満ちたものであった。というのも,羅恵錫は日本に留学し,その近代教育を通して母や妻を超えた人間として何よりも塞術家として目覚めた。彼女にとって「先進国日本jで学んだ西洋画に精進することは,韓国の文化的発展を願うことだ、った。帰国し,画家としての成果を示す出品先としては,これまた日本の帝-743-

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