中国・日本・台湾等との比較検討があろう。その際,モニュメントやテキストに代表される作品文化(美術はその典型である)に専ら光を当ててきた西欧近代の学問の陰になり,日の目を見ることの少なかった文化の領域や考え方に注目した。こうした観点から,見立ての如き一時的な架設性や,遊戯性や演技性と関わる美的文化の伝統の解明を,今回のシンポジウムの主題として「遊びの美意識東西の比較美術jと設定した。それは作品文化に対する遊びの文化,芸能の実演性と関わる美術のありょうの討議となった。私個人としては,デュシャンの「泉」やアース・ワークやパフォーマンスの理解には,こうした東洋的伝統をもっと積極的に主張するのも面白いと思った。東アジアの実物文化に拘わらぬ姿勢には,生活文化と美的文化との積極的な融合を意識した伝統がある。それは結局の所,無一物を理想、とする人生と塞術との融合を説く宗教思想、を背景に有つ。例えば「放下」の主張である。風流や風雅を掲げる中世の隠遁思想がそこから生まれ出る。それは作品を物体に結晶させるよりは,自己に於いて華や美意識を錬磨し,美意識や塞に於いて自己を探究する世界である。自己の美意識に従って,世間と交際する人柄としての自己とは別の所で,本来の自己を,とりわけ自然を相手に意識する隠遁や隠逸の美学である。その中にも自然に刻印された精神文化を強調する中国的文化意識と作為しつつ自然の佳に保つ点に文化を自覚する日本の型と,自然をその佳に自然とするのを善しとする韓国型との相違があって,同じく儒教的文化圏とは言いながら一筋縄ではいかないこと,安易な一体観は禁物であることが指摘された。東「アジアは一つjと言いながら,その実,多様であることが更めて確認された。福山の県立美術館では,朝鮮通信使について,また版画を例に,過去と未来の日韓の塞術交流を説く講演を行った。金泰樹は,日韓の近代史を省みて,そこには軍事と経済とが突出しているが,文化とりわけ塞術の交流が進められることの意義を説いた。共通の文化マーケットの成立は塞術そのものにも影響を及ぼすであろうことを説得力を以って語った。塞術を自律的な領域とのみ見る視点では,過去も未来も有効に分析できず,また展望もできない。わざわざ異文化交流と言わぬまでも,既に文化や人や情報の移動が活発な現代,韓国で日本文化がまだ解禁されない時点で文化資本としての塞術やその市場について語ったことが印象深い。順序は逆になるが,朝鮮通信使について述べた小島は,過去を省みて,興味深い調-745-
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