鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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査と解釈を示した。小島は,芸術文化に関する日韓関の交流についての従来の研究成果に触れつつ,彼自身は,この交流をもっと大きな文脈に設定し考察する。即ちネーション・ビルデイングの観点から朝鮮通信使を取り上げる(今回の共同研究会は図らずも,この近代国民国家の形成や植民地の問題と関連する言説が多かった)。明治維新で欧米志向に切り換えた日本の文化摂取の姿勢は,それまでは中国志向であった。中国の有つ政治的文化的威光を核とする「華夷秩序」が近世に出現していた。日本は東シナ海,南シナ海,インド洋さらに日本海等を範囲とする国際貿易の中で機能していた中国の政治的経済的権威を尊重せざるを得なかった。「勘合貿易jしかり。秀吉の「文禄の役」「慶長の役J以降も江戸幕府は,この国際秩序を承認しつつも,国内的には日本が周辺諸国から尊崇される国家であることの演出に朝鮮通信使を利用した。それは決して善隣友好というお題目のためだけではない。塞術を含む文化交流の隠された意図,そして実態はこうしたコンテキストの一環であった。その後,朝鮮通信使の拠点の一つである輔の浦を訪れ,寺社建築・中世の町並みや芸能等の総合的な生活文化の交流に関する見学会と研修を行い具体的知見等を交換した。研究情報の交換だけではなく,草の根レベルでの交流は幸せであった。今回の意義を概括しよう。東アジアは,近代化を通し表面的な制度では,欧米に近似している。しかし,東アジアの歴史を踏まえることが重要である。日韓の聞でも,歴史的伝統の相違により,美意識を初め,塞術作品に関する考え方や自然と文化に向き合う姿勢も様々に相違する。しかし,両国は近代国民国家の成立以前から密接に交流しており,政治を意識しつつも拘束されない立場で,混成性という観点からの文化形成・文化伝達の研究を一段と強力に進める必要がある。-746-

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