鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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るが,大きいのは小さくできないからだJ(注12)。この文献から,当時の学者が,既に彫刻理論への模索を始めていたことがうかがえる。何ヵ所から出土した斉偏への観察から,鼻,目の部分に刻まれた痕跡が確認されているが,これは,問土に指先で形を整える工芸技術の継承に,「彫刻技術」が加わったものである。このことは,中国彫刻が成長する上での一つのプロセスであった。さらに,当時の学者である韓非子は,自らの文献の中で化粧法に触れ,「故に,古の毛音や西施の美貌を褒めそやしたところで,自らの顔は,美しくはならない。しかしながら,口紅,髪油,眉墨で化粧をすれば,倍も見栄えがする」と述べている(注13)。女郎山遺跡の斉偏群像の中で,主となるのは,舞踏を行なう女性備である。それは,史書にしばしば登場する「女楽」のことで,彼女たちにとって,化粧は欠かせないものであった。第二章の発掘報告に述べられた「顔は赤色であるjとは,皮膚への表現というよりも,一種の化粧法であろうと考えられる。このような審美意識が,一般化していたに違いない。4.道具の役割が重要視されていた。かつての三晋の地にあたる現在の洛陽市金村から出土した青銅製人物座像,両手に持つ棒の先に止まる鳥を眺める青銅製の立偏,洛陽市中州路の第2717号墓から出土した脆き棒の様な物を持つ備,また,かつての楚の地にあたる現在の長沙市から出土した彩色木質直立式の剣を持つ男性備は,いずれも斉備と同時代に作られたもので,備に道具を持たせることで,人物の特定の所作を具体化させている。女郎山遺跡から出土した演奏する備は,太鼓,鐘,磐などの楽器と彫像とを切り離して製作した上で,一対から成る彫像を形成させており,こうしたスタイルでの製作泣ミは,斉備における最大の特徴である〔図7〕。さらに注目すべきことは,「観賞者」という設定のもとに作られた備の背後に置かれた「鳥」の彫像である〔図8〕。その存在の重要性は,単に鳥を配置するという状況を土曽やしただけではなく,それを一つの特別な道具として登場させたことで,演奏者や歌舞者の芸術活動を浮き立たせる役割を果たしたところにある。私見を述べると,鳥の出現には二つの意味が含まれている。一つは,斉人が,自分たちの祖先は鳥であると考えていたことである。東夷(少美)部落には五つの氏族がおり,いずれも鳥を「トーテムjとしていた。先民活動を行なった地域は,まさしく斉備の発見地と重なっており,実物の出土が,間接的に文献内容を証明している。ここでは,演奏と歌舞が,-75-

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