鹿島美術研究 年報第16号別冊(1999)
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注(1) 〔春秋〕孔丘『論語・檀弓下第四』:「謂為儒者不仁,不殆於用人乎。」これら氏族の人々を魅了し,その場にヲ|き寄せたものと考えられる。もう一つの意味とは,自然界の鳥までが音楽の素晴らしさ,麗しさを悟り,飛来してきたことで,歌舞の魅力を一層際立たせているというものである。この事柄に因んだ中国古典文献が残されている。「師瞬は(中略),やむをえず琴を引き寄せ曲を奏でた。ーたぴ奏しはじめると,黒い鶴が八羽ずつ二列に並び南方から飛んできて,回廊の門の棟のよに止まり,さらに奏し続けると,鶴は一列に並び,またさらに奏し続けると,鶴は首を伸ばして鳴き,翼を張って舞いだしたJ(注14)。中国の古典文献には,鳥は演奏に敏感であるとの記録が残されており,その起源が春秋・戦国時代にあることは,文献及び文物から証明できる。群像に登場する,音楽に聞き入り静聴する鳥の姿が,まさに文献内容を物語っている。最後に「斉文楚武」について言及する。斉と楚の諸侯国の社会的気風を比較する度に,しばしば[斉文楚武」という言葉が引用される。この言葉は,斉と楚の国情を的確に反映している。ある文化が形成される段階において,地域全体に,そのヒューマニズ、ムを浸透させることは無理である。幾多の戦いを経て「三十六の国を征服し,手に入れた土地は三千里に及んだ、Jとされる,南国のほぼ全域を統治するに至った楚は,山東半島を支配した斉と比べ,軍事行動に極めて関心が高かった。楚備が「楚武」を背景に誕生した時代的風貌を持ち合わせていることは,その表情から一目瞭然である。その題材は,何種類かに分けられるが,中でも質,量共に軍事武装類の備が際立つている。一方,多くの思想家,芸術家が集まっていた斉地を,崇め尊ぶ社会的気風が存在する中,その文化的特徴は,斉偏芸術に体現化された。これまでに発見された伺が数量的に少ないとはいえ,軍事武装類の備は一体として見当らない。今後,出土される斉備は,一律に歌舞備であろうとは推測できないが,現在,確認可能な資料に基づき,ただ一つ断言できることは,斉地で製作された偶像は,紛れもなく「享楽文化」に触れた内容が主流になっていることである。この件に関し,山東省済南市無影山から出土した著名な前漢時代の「楽舞雑技偏」と結ぴつけて考えるならば,彫刻技法を駆使するに留まらず,「文」を表現する傾向が強いことから,当地での芸術活動の流れを知ることができる。76

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